持って生まれた純真無垢な心
不徹寺さまでは、松山照紀庵主さんをはじめ、お寺の皆さんにとてもお世話になりました。
お昼のご飯も美味しくいただいたのでした。
食べる瞑想といわれていたように、一口一口味わって感謝していただくことができました。
身も心も満たされるという体験でした。
そのあと、本堂で、松山庵主さんのお話を拝聴しました。
恐れ多くも私との出会いから話が始まりました。
庵主さんが、まだ岐阜県の天衣寺で、修行僧だった頃の話でした。
京都の東福寺で、臨済禅師と白隠禅師の遠諱で大摂心が行われたのでした。
全国から二百数十名もの修行僧が集まる摂心でした。
私も師家として独参を受けていました。
庵主さんも、私の独参のところへ行こうとされたそうなのですが、なかなか機縁がかなわなかったということを話されていました。
修行道場での修行を終えた後、ご縁があって、この不徹寺にお入りになったのでした。
そこで盤珪禅師の不生禅を少しずつ学び始めた頃のことを話されたのが、とても印象に残っています。
当時はまだお寺に一人で、猫と暮らしていたそうです。
ある夜、お寺の中で、ふと「これでいいんだ。このままでいいんだ」と気づいたというのです。
庵主さんのおっしゃるには「その瞬間、盤珪禅師が説かれたのはこのことだったのかと、心の底から納得しました。あまりの嬉しさに胸がいっぱいになりました」というのです。
盤珪禅師の教えに出会い、盤珪禅師のように恵まれた環境を捨てて、あえて苦難の道を歩まれた祖師方の気持ちも、ようやく分かったように思われたそうです。
そして、この不生の教えこそ、令和の今の時代にふさわしい、素晴らしい教えだと確信したとおっしゃっていました。
「自分にはまだ十分な力はありません。それでも、たとえ一人でも、この教えの素晴らしさを感じてくださる方がいれば、それだけで十分ではないか。生涯をかけて、この教えを伝えていこう」と決心されたのでした。
「私たちは、ともすれば多くのものに支えられていることを忘れ、自分一人の力で生きていると思い込んでしまいます。そんな思い込みに気づかせてくださったのも、盤珪禅師の教えでした。」と静かに心をこめて語ってくださっていました。
それ以来、さらに盤珪禅師の言葉を何度も読み返し、それから有り難いことに私が配信している盤珪禅師の話も、繰り返し聴いてくださったのでした。
「聴くたびに嬉しくなります。本当にありがたい教えに出会えたと思っています。」と語ってくれていました。
有り難いお話でありました。
それからさらに禅堂でイス坐禅をして、参加者の方と懇談会をしました。
いろんな方のご質問をいただきました。
こんな質問がありました。
ある方から「禅の教えに「即心是仏」とか「即心即仏」という言葉があるけれども、いまひとつよく分からない」というのです。
「この言葉について、もう少し詳しく教えていただきたいと思います。
また、それは盤珪禅師尚の説かれた「不生」と同じようなものなのでしょうか。」ということでした。
私は、「即心即仏」と、盤珪禅師が「不生」とおっしゃったのと、まったく同じであると言っていいと思いますと申し上げました。
「即心即仏」とは、心がそのまま仏であるということであります。
盤珪禅師が「不生」とおっしゃるのは、仏心というのは、何か努力をして生み出したものではないのであり、もともとあるものだということなのです。
我々は何か努力をして、何かを生み出して、何かを付け足したいと思います。
坐禅をして、一生懸命坐禅をしていったら、自分の心に悟りの花が咲くとか、自分がもう少し立派な人間に変わるとか、そういうふうに思うのです。
しかし、それは何かをしたことによって、何かが生じる、生まれてくるということであります。
そうではないということを言っているのであります。
私たちの心は、その生まれたままが仏であるということなのです。
こういうことを馬祖禅師は「即心即仏」とおっしゃいました。
生まれながらにして仏心が具わっているということなのです。
それを盤珪禅師は「不生」という言葉で表現されたのであります。
そんなことを申し上げました。
そして庵主さんにご説明をお願いしました。
庵主さんは「生まれた時の純真無垢、そのままが我々の土台だと思う、というふうに説明しています。
みんな誰しも可愛い赤ん坊で生まれてきて、ここまで生きてきているのです。」と語ってくれました。
さらに庵主さんは多くの方の看取りを経験されていますので、その体験から語られました。
「私は亡くなる方の看取りを、ずっとやり続けてきています。
現在も続けているところです。
亡くなっていく時、呼吸が荒くなり、意識がなくなるというところで、もう間もなくかと、周りの方々の緊張もぐっと高まってきます。
そして、向こうに旅立とうとする時の美しさたるや、言葉に尽くせないのです。
子供のような、純真無垢な姿だけがありありと出てきます。
どなたにも、その姿が現れるのです。
だから、自分は駄目だなんて思う必要は一切ないと思います。
世間ではあまり評価されなかったとか、業績があるとかないとか、そんなことはまったく関係ありません。
本当に、亡くなる瞬間があまりにも美しくて、もっと抱きしめたくなるのです。
可愛い赤ん坊を見て、「可愛い」と言って、衝動的に抱っこしたり、涙が出てきたりすることがありますね。
あれに近いのです。
それくらい美しいですよ。
なので、自分の価値観で自分を裁くことはせず、本当におまかせで生きていっていいと思っています。」と語ってくださっていました。
盤珪禅師の説かれた不生の仏心を、庵主さんはご自身の看取りの体験を通して語ってくださいました。
ご自身の体験を語られる言葉は力強く説得力があります。
いただいた不徹寺さまのパンフレットにも、「不生」とは、「生まれ落ちたときのまま、持って生まれた純真無垢な心で生きる事」と書かれていました。
庵主さんのおっしゃるように、この今の時代にこそ必要な教えであります。
横田南嶺