やさしい道
『広辞苑』には「容易な行法。主として浄土教で阿弥陀仏への信仰を指す場合が多い。」と解説されています。
その対語は「難行」です。
「難行」は「身心を苦しめて、仏道を修行すること。難行苦行」という解説があります。
易行と関連して「易行道」という言葉もあります。
「易行道」については「念仏宗・浄土宗の教えで、念仏を唱え、阿弥陀如来の助力によって極楽に往生する方法。他力本願。自力で修業して成仏する難行道に対していう。」と説かれています。
岩波書店の『仏教辞典』には、「容易な行。難行に対する。浄土教で、他力念仏の立場を易行とし、自力修行の難行に対するものとして人々に勧める」と解説されています。
さらに「法然は、『選択本願念仏集』において、易行道=浄土門、難行道=聖道門とし、さらに、阿弥陀仏が称名念仏を本願として選択したのは、易行であり、かつ勝行であるからと、理由付けた。こうして易行の念仏が正当化され、広められることになった」とも解説されています。
御念仏の道が易行道と言われているのですが、なかなかどうして、そうやさしいものではないとも思います。
村田静照和上の『念共讃裡』のはじめにこんな話が書かれています。
「此の山田の駅長をして居られた、古川さんという方が此の間此所へ来られましてな、南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏。
其の古川さんが始めて此所へ参ろうと思われたのが又妙ですのやー。
あの山田の駅を乗り降りする沢山の人の中、大声で南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と念仏を称えて、此の河崎へ住き還りする者が相当にある。
それを他の伊勢参宮の人達が嘲り笑うたり、嫌うたりするけれ共、一向平気で南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏とやって居る。
それを駅長さんが始終見て居て、
アア言う気持ちになられたらー。
アア無我になることが出来たらーと思うて此所へ訪ねて来られまして、
「どうぞ仏法をお聞かせ下さいー。」
「そんならもう駅を止めてからお出なさい。」
「それはー困りますがーー。」
「困るようならもうお帰りなさい。話は簡単ですのじゃーハハハハ。」
「それでも私が駅へ出なければ、家内や子供を養ってゆくことが出来ぬようになります。」
「ソンナ安ッポイ仏法じゃごわせんわい!南無阿弥陀仏。」
和上暫く瞑目念仏相続の後、
「それから十日位もたってから、又駅長さんが見えましてなー。」
「もう駅長を止める決心をつけて来ましたから、どうぞお聞かせ下さい。」
「左様かし。それは結構!」南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。
「駅長さん!それではなアー此所へ晩だけお出でなさい。
ソレデ晩の六時頃迄は、此所へ来る為の時間を待つーというつもりでー駅へ出てよろしいー」。
それなら駅長を止めんでもよろしいはなアー。止めた気持で時間を待つー。」
南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。」
という話であります。
御念仏に来るのなら、駅長をやめて来いというのです。
とても厳しいお示しであります。
しかし、それくらいの覚悟がないと、念仏を申しても身にならぬということでしょう。
そこで駅長を辞める覚悟をして来たら、今度は、晩から御念仏に来るとして、その晩になるまで御念仏までの時間を待つつもりで駅に出てはたらくといいというのです。
法然上人にも、これとよく通じるお言葉があります。
「仕事の合間に念仏するのではなく、念仏を中心にして、その合間に仕事をする」というのです。
「たとひ余事をいとなむとも、念仏を申し申し、これをする思ひをなせ。余事をしし念仏すとは思ふべからず。」という言葉です。
春秋社の『我が師村田和上』という書物によると、村田和上は、安政二年(一八五五)今の三重県津市の一身田にある明覚寺にお生まれになっています。
お寺のお生まれであり、そのお寺を継ぐ立場でありました。
ところが、朝比奈宗源老師の『覚悟はよいか』の記述によると、村田和上はお寺の跡取りになることが嫌だったそうなのです。
お寺を出て、天台宗真盛派の西来寺に入って修行をなされました。
八年もそこで修行されたのでした。
やがて七里恒順和上の噂を耳にしました。
七里和上は、天保六年(一八三五)のお生まれで、新潟の出身です。
福岡の博多にある万行寺の住職となられた方であります。
西本願寺の執行職を数年間務めた以外は自坊を離れず、甘露窟という私塾で教育や布教に専念されました。
明治三十三年(一九〇〇)、六十六歳でお亡くなりになっています。
明治十九年(一八八六)に村田和上は七里和上を訪ねています。
村田和上三十二歳、七里和上は五二歳であります。
朝比奈老師の著書によると、「そのうちに、七里恒順という人の噂を聞く。七里和上だ。この人も門徒宗の西本願寺の高僧で、ここ百年、これほどの人物はなかっただろうとまでいわれる。
一時は、小学校の教科書にまでこの人の話題が出た。それほどの人だ。
学者であり、信仰家であり、宗政家でもあった。
村田和上は、この人に会うほかはないと思われたのだな。
そこで博多の万行寺へ訪ねていって、そこの私塾みたいなところに入った。
高等科、中等科、初等科とあったのだが、自分は仏教の素養がないからというので、初等科をえらんだそうだ。
ところが、その七里和上のお説教を聞いて、一回でもって、すーっといけた。
門徒の信心の骨髄ともいうべき、阿弥陀如来の誓願を信ずれば、不安はない、ということを、ぴしゃっと受けとめた。」というのです。
その受け止め方について、朝比奈老師はさらに
「「わかった」という世界だな。
それはもう、嬉しくて仕方がない。大愉悦だな。儂らが、初関を得たときと一緒だ。
さあ、嬉しくて、思わず「ナーマンダ、ナーマンダ」と、大声で称えてしまっていたのだ。
感謝の念仏が爆発したのだな。
傍のものは怒った。
あの伊勢から来たキチガイがといって、うるさがる。
七里和上は、「念仏は豆をくわえて落とさんほどに申せ」
といっていたそうだ。
小さい声で、控え目に称えよというのだな。
そういう作法のなかへ、破れ鐘みたいな大声で「ナーマンダ、ナーマンダ」では、たまらない。
二百人もいたお弟子さんたちはずいぶん文句をいったそうだけれど、お師匠さんはとりあわない。
さすが、眼があったんだな。以来、有名な高声念仏になる。」と説かれています。
苦しんで苦しんで苦しみ抜いて初めて救われたという体験は、禅の修行も同じように思えます。
やさしい道であるとは申せ、決してたやすいものではないのであります。
横田南嶺