無になる
はじめ一年でなんとかなると思ったようですが、二年たっても三年たっても、それでもらちがあきません。
五年六年目となって、天も地も無字一枚になったという体験をされていくのであります。
無字の公案というのは、『無門関』の第一則にあります。
趙州和尚に『イヌに仏性は有りますか』と僧がたずねたところ、趙州は『無』とこたえた。
という問題です。
この無字について無門慧開禅師は、「全身まるごと疑いのかたまりとなり、ただひとつの無字に参じて、昼となく夜となくこれを引っさげよ。
虚無の無であるとか、有無の無であるといった理解をしてはいけない。」と工夫の仕方を示されています。
無というと、有る無しの無だと思いますが、そのような意味を持たせないのです。
ただ「無になれ、無になりきれ」と教えるのです。
これは、何も考えないということではありません。
あれこれと思いめぐらす心をいったん脇に置いて、ただ一つの「無」に全身全霊を集中するのであります。
もっとも仏光国師が、『無門関』を学んでいたかどうかは定かではありません。
無門慧開禅師は、一一八三年のお生まれで一二六〇年にお亡くなりになっています。
仏光国師は一二二六年のお生まれです。
『無門関』が編まれたのは一二二八年、仏光国師が二歳の頃のことであります。
『無門関』は中国においてはあまり読まれていなかったとも言われていますので、この『無門関』をもとに修行されたかどうかは分かりません。
しかし、この無字に集中する修行は既に大慧禅師の頃から行われていました。
大慧禅師は、一〇八九年に生まれ一一六三年にお亡くなりになっています。
大慧禅師は、富枢密への手紙の中で、
「この「無」の一字こそ、いろんなねじけた知覚をくじく武器です。(この「無」を悟るのに)有無の意識をおこしてはいけません。
理窟の意識をおこしてはいけません。意根によって思量し臆度してはいけません。
眉をあげ目をまばたくところにじっとしていてはいけません。
言句の上でその場しのぎをしてはいけません。
無事そのものの中にとどまってはいけません。
挙示されたことについて早合点をしてはいけません。
文字にとらわれて証拠がためをしてはいけません。
ただ朝から晩まで行住坐臥の中で、いつも工夫し、いつも気を引き立てなさい。
「狗子にも仏性があるのでしょうか。」「無」(と言った工合に。)
日常(の暮らし)から離れないで、ためしにこんな風に工夫をしてみなさい。」
と説かれています。
そうすれば実際の様々な公務も、何らさまたげになりませんと示しています。
先日、円覚寺派の寺院向けの冊子に、最近修行道場を出た青年僧が、ご自身の修行時代のことを書かれている文章があって目にとまりました。
その中に次のように書かれていました。
「慣れない生活と公案に苦しんでいたある日、老大師より無字に成り切れていないというご指摘がありました。
無に成り切るというのは何なのか、考えても分からないのならば成ってやろうと、考えることをやめ、ひたすら心のなかで無、無と唱え始めました。
朝課でも無、作務でも無、食事の時も無、坐禅の際も無とただ成り切りました。
最初は余計なことを考えてしまい、行っていることも中途半端になり、他人の様子も見ることができず、注意が成っていないと指摘されるなど、大変な思いをしました。
このまま成り切って大丈夫か不安に駆られましたが、ここまで来たら最後までやろうと覚悟を決め、更に無を唱えました。
すると、日常の作業が少しずつ集中できるようになっていったのです。
暑い寒い面倒といったような雑念が、無の一字に吸い込まれていき、それでいて無にとらわれずに行動に集中できる、動いているのに坐禅を行っている感覚に陥りました。
自分のことに集中できるようになると、今の状況で周囲が何を求めているか、先輩方に指示をされる前に予測して行動することが可能となり、ようやく公案という長い道のりのスタートラインに立つことができました。」
と書いてくれていました。
無字の修行の様子をよく表しています。
無に集中していると、実際の仕事ができなくなると思われるかもしれませんが、そんなことはないのです。
精神の基盤ができあがるというのか、先代の管長であった足立老師は、「無字のまな板のうえに置いて調理をするようなものだ」と譬えられていました。
平静な心を保ったままでいろんな仕事を自在にこなしていけるようになるのです。
「無になる」とは決して「ぼんやりして何も考えなくなる」ことではなく、余計な思いに振り回されなくなり、かえって目の前のことがよく見え、なすべきことに集中できるようになるのです
そうしますと、余計なことをあまり考えないので、精神的にも肉体的にも疲労が少ないのです。
七百年も八百年も前に行われていた修行が、この今の時代になって行われていて、そして若い修行僧たちが力をつけていっているのです。
「無になる」という修行は実に単純に見えて奥が深いものであります。
横田南嶺