仏光国師の渡日
仏光国師は、十三歳で出家されました。
浄慈寺で北礀禅師のもとで出家されたのでした。
十七歳から、径山に登って仏鑑禅師のもとで無字の公案に取り組んで坐禅しました。
それも五年ないし六年という長い歳月、無の一字に集中して修行されました。
天も地もいっぱい無字に成り切っていくのでした。
そしてある朝木板を打つ音を聞いて悟りを開きます。
その心境を漢詩で表現して仏鑑禅師に示されました。
仏鑑禅師は、その漢詩をご覧になって、よいとも言わず、よくないとも言わず、ただ振り払われて地上に置かれました。
仕方なく、仏光国師はその詩を持って坐禅堂に戻りました。
その後、仏鑑禅師と問答をします。
竹篦で厳しく打ちすえられました。
お認めくださらなかったのであります。
これはむしろ、その悟りの体験を打ち砕くことに眼目がありました。
悟りとは、分別の無い世界に目覚めることです。
ところが、自分は悟ったという思いにとらわれると、それ自体が、悟った、悟っていないという分別になりかねません。
自分は悟ったけれども他の人は悟っていないなどと思いはじめると、これは分別の世界になってしまいます。
この悟りをも忘れ去ることに重きをおいています。
しかし仏鑑禅師はその明くる年にお亡くなりになっています。
その後、霊隠寺、阿育王山、浄慈寺と五山のお寺を遍歴行脚されます。
浄慈寺では蔵主になっていますが、仏光国師のお名前は、五山の高僧たちをも超えていると高く評価されます。
蔵主は、大蔵経などの経典を収める経蔵を管理する役職です
そんな中で、虚堂禅師にめぐり会って、また厳しく否定されてしまいます。
そんなことで五山の蔵主というのか、あなたの腹の中にいっぱいになっている禅などすべて打ち砕いてしまえと言われてしまいます。
その後さらに修行を重ね、大慈寺の物初禅師のもとで、浄頭といってお手洗いの清掃を務める役についていました。
そこで井戸で水を汲むときに、悟りを開きました。
ここでようやく徹底することが出来たのでした。
三十歳になる頃であります。
その後三十代には七年間にわたって白雲庵で母を養って過ごされます。
これは唐代の禅僧陳尊宿が、草履を編みながら母を養ったという故事に倣ったと言われています。
五十四歳で日本にお見えになることになります。
天童山景徳寺におられて、住持である環渓惟一禅師のもとで第一座を務めていました。
弘安元年(一二七八)、日本では大覚禅師がお亡くなりになりました。
その年の十二月二十三日、北条時宗公は、宋からすぐれた禅僧を招くため、詮蔵主と英典座の二人を使者として遣わしたのでした。
その請状が今も円覚寺に伝わっています。
原文は漢文ですので、意訳してみます。
私は禅の宗旨に心を寄せるようになってから、すでに長い年月を重ねてきました。
禅寺を建立し、禅僧たちが安心して修行できるようにしてきました。
しかし私は、いつもこのように考えています。「樹にはその根があり、水にはその源がある」と。
そこで、禅の根源である宋の国のすぐれた禅僧を招き、この禅の道をさらに盛んにする助けとしたいと思っています。
そのため、詮蔵主、英典座のお二人に煩わせる次第です。
大海原の荒波と、海路の険しさを恐れることなく宋へ渡り、すぐれた禅僧を探し求め、その方をお招きして、この日本へ帰って来てもらいたい。
私が願うのは、ただそのことだけです。
という意味です。
すでに仏光国師は、日本に行って帰ってきた禅僧たちから、北条時頼公の参禅修行の様子などを耳にしていました。
加えて南宋は、元の侵攻によってまさに滅びようとしていました。
そこに北条時宗公の請状が届いたということがあって、日本にお見えになる決意をされたのだと察します。
天童山で皆とお別れをします。
その時の漢詩が残っています。
世路艱危、故人に別る。
相看て手を握って頻りなることを知らず。
今朝宿鷺亭前の客。
明日扶桑国裏の雲。
という漢詩で、意訳すると、
この乱世に生きる道は、どれほど険しく危ういことでしょうか、そんな中で親しい人と別れます。
別れを惜しんで、互いに見つめ合い、何度も何度も手を握ります。
今朝はまだ、ここ天童山の宿鷺亭にいますが、
明日にはもう、はるか海の彼方、日本の空に浮かぶ雲となっているのでしょう。
という内容であります。
『円覚寺史』に玉村竹二先生は、「この一偈は、国師の大衆に対する惜別の情が、あますところなく流露して、情に脆い国師の一面が、よく窺われるものである」と評されています。
かくして時宗公の熱意にこたえて、仏光国師は弘安二年日本にお見えになったのでした。
横田南嶺