不滅の法灯
護良親王というと、鎌倉宮に幽閉されていたことで知られています。
なぜ比叡山に石碑があるのかと思って眺めていました。
「護良親王」を『広辞苑』で調べてみると、
「後醍醐天皇の皇子。
落飾して尊雲と称し大塔宮といい、天台座主。
討幕を計り還俗、奈良・吉野・高野に潜行。
諸国に令旨を発して建武新政を招来。
征夷大将軍に任ぜられたが、のち足利尊氏のために鎌倉に幽閉、足利直義の臣、淵辺義博に殺された。(1308~1335)」と解説されています。
天台座主になられていたのでした。
「大塔宮」を『日本国語大辞典』で調べてみると、
「はじめに(大塔は比叡山にあり、天台座主(ざす)の住居であるところからいう)天台座主となった皇族の称号。」
と解説されていて、
その次に、
「後醍醐天皇第一皇子、護良(もりよし)親王をいう。
母は権大納言源師親の女親子。落飾して尊雲と称し、天台座主となる。元弘の乱には還俗して護良と名乗り、父帝に協力して討幕運動の中心人物となるが、中興政府では父帝と相容れず、建武元年(一三三四)鎌倉に幽閉され、翌年中先代(なかせんだい)の乱に乗じて足利直義に殺された。延慶元~建武二年(一三〇八~三五)」
と護良親王のことが書かれています。
鎌倉の二階堂に護良親王のお墓があります。
私も修行僧の頃に何度かお参りしたことがあります。
後醍醐天皇の御子であり、天台座主になるという仏縁もありながら、非業の死を遂げた方であります。
同じく後醍醐天皇の御子でも、悲運の最期を遂げた護良親王の菩提を弔うために東慶寺に入ったのが用堂尼であります。
東慶寺様に立派なお墓がございます。
東慶寺の第五世であります。
比叡山延暦寺は、伝教大師最澄が御開山で、座主の第一世が義真、第二世が円澄、第三世が慈覚大師円仁であります。
平安末期からは摂関の子や法親王が天台座主に就任することもあるようになります。
第四十九世の最雲法親王は堀河天皇の皇子でいらっしゃいます。
護良親王は第一一六世と一一八世の座主となられています。
後奈良天皇の皇子で第一六六世天台座主となられたのが、覚恕であります。
この方は元亀元年一五七〇年に座主に就任されています。
その翌年の元亀二年一五七一年九月十二日、織田信長によって比叡山は焼き討ちに遭ってしまいます。
覚恕座主はその時に京に居られたので、難に遭うことは免れたのでした。
比叡山の焼き討ちの被害は甚大なものでした。
根本中堂をはじめ多くの堂塔や僧坊が焼失し、比叡山は壊滅的な被害を受けたと伝えられています。
延暦寺が朝倉、浅井側に味方したことが大きな原因だと言われています。
僧兵などもいて、武力をもっていたこともまた原因の一つであります。
その時には、延暦七年七八八年伝教大師最澄が根本中堂の前身である一乗止観院を建立した際、本尊の薬師瑠璃光如来の宝前に灯明をかかげて以来受け継がれてきた不滅の法灯も一時絶えてしまいます。
不滅の法灯は、山形県立石寺に分灯されていて、焼き討ちのあとに、立石寺から分灯されたそうなのです。
不滅の法灯といっても、それを今日まで絶やさぬ為にはいろんなことがあったのです。
不滅の法灯は菜種油を燃料にして灯芯に油がしみ込み、火が点るという昔ながらの灯明であります。
毎日、朝夕燃料の菜種油を絶やさないように菜種油を注ぎ足し続けているそうです。
この油を断つことから油断という言葉ができたという説もありますが、定かではありません。
「法灯」を岩波書店の『仏教辞典』で調べてみると、
「法灯〈ほっとう〉とも読み、訓読して〈のりのともしび〉ともいう。
仏法,つまり仏の真理・教説のこと。
仏法が生きとし生けるものの冥暗・蒙昧を照らし打ち破ることを、世間の灯火が闇黒を消して照明するのに譬えたもの。」
「また、絶えることなく相続されてゆく正法の伝統を、燃え続ける灯火に譬えてもいう」と解説されています。
元亀法難の慰霊のために「元亀兵乱殉難者鎮魂塚」というのが比叡山にございます。
平成になって山田恵諦座主のときに出来ています。
山田恵諦座主は、第二百五十三世の座主でいらっしゃいました。
只今の座主は藤光賢座主でいらっしゃいます。
第二百五十九世でいらっしゃいます。
かつて戦乱の渦中に巻き込まれたこともある比叡山でありましたが、今は平和の祈りの地となっています。
禅の世界でも法灯を受け継ぐことを大切にしています。
もっとも、法灯といっても禅の場合は心より心に伝えるものであるとして、油を灯すことを言うのではありません。
私もかつて円覚寺の第二百十八世の法灯を受け継ぐ、歴住開堂という儀式を務めさせてもらったことがあります。
それ以来重い荷を背負い続けている気持ちで毎日暮らしています。
横田南嶺