仏光国師の慈悲の心
八朔という言葉もあります。
『広辞苑』には「旧暦8月朔日のこと。この日、贈答をして祝う習俗がある」と書かれています。
七月の末に、とある出版社の企画で、仏光国師について講義をしていました。
改めて仏光国師について学び直しています。
仏光国師は、無学祖元禅師のことです。
『広辞苑』には「鎌倉時代の臨済宗の僧。字は子元。宋の明州慶元府(浙江省)の人。執権北条時宗に招かれ、1279年(弘安2)来日、建長寺に住し、82年円覚寺を開創。その法流を仏光派という。諡号は仏光禅師・円満常照国師。(1226~1286)」
と書かれています。
仏光国師の来日の経緯について調べていました。
その背景となることに、やはりモンゴル帝国のことがあります。
モンゴル帝国は一二〇六年チンギス・ハンによって建国された国です。
一二六〇年にフビライが即位します。
そして一二七一年に国号を「元」と定め、中国王朝としての体制を整えます。
その元の国が、南宋の国も滅ぼしてしまうのです。
一二七九年の二月に崖山の戦いで、南宋の国は滅亡します。
南宋最後の皇帝は、祥興帝、趙昺といいます。
平家の壇ノ浦の戦いのように、陸秀夫はまだ八歳の趙昺を抱いて入水して南宋は滅亡したのでした。
二月に南宋が滅んで、その六月に、仏光国師は日本にお見えになります。
元によって祖国が滅ぼされるこということが大きな要因のひとつでもありました。
それから、仏光国師の語録に、こんなことが書かれています。
仏光国師がまだ南宋にいたころのことを語っているのです。
その当時、南宋には日本から来た僧侶たちが大勢修行していたというのです。
まだ仏光国師は日本から来られた僧と親しくするほとではなかったというのですが、日本という国では仏法が大いに栄えているということだけは聞いていたようです。
それが日本に行って帰ってきたという僧から、北条時頼の話を聞くのです。
時頼公は、この世の栄華を捨て、自ら法衣をまとい、そして亡くなられる時には、端然と坐禅したまま安らかに入滅されたという話を聞きます。
そして日本では執権という高い位にある者が、このように深く仏法を尊び敬っているのかと感嘆したというのです。
そこである僧が日本に行くというのを聞いて、
戯れに、「あなたが日本へ行くのなら、私も一緒に行きましょう」と言ったのだと書かれています。
次には、日本の僧が南宋の禅寺に修行に来たり、南宋の僧が日本に行って帰ってきたりして、日本の国では執権が深く禅に参じているという話を聞いていたということがあります。
そして一二七八年に蘭渓道隆禅師がお亡くなりになって、北条時宗公がその十二月にすぐれた禅僧を日本に招聘しようと使者を遣わすのです。
元の国によって祖国が滅ぼされるということ、日本では執権までもが禅に参じていると聞いていたこと、そして時の執権北条時宗公からの使者が来たということ、この三つのことによって仏光国師は来日されたのだと思います。
一二七九年六月に来日され、鎌倉には八月にお見えになりました。
建長寺の第五代住持に就任されました。
数え年五四才でありました。
当時の寿命を考えるとかなりの高齢で日本にお見えになったことになります。
それから一二八六年にお亡くなりになるまで、丸七年と少し日本において活躍されたのです。
祖国が滅ぼされて日本に見えたのですが、その祖国を滅ばした元の大軍は、来日の二年後、弘安四年に日本に攻めてきたのでした。
弘安の役の戦いをどうにか終えることができて、翌年弘安五年一二八二年に円覚寺が開創されて開山となります。
怨親平等の精神のもと、敵も味方も区別することなく、戦いで亡くなったすべての方々の御霊を平等に供養されたのであります。
どんなお気持ちであったろうかと察するにあまりあります。
佛光録には元寇で亡くなった方の供養のための法語が残されています。
味方の軍勢も敵の軍勢も、戦いで命を落としたすべての人々、さらに海に溺れて亡くなり、帰る所を失ったすべての御霊が、速やかに救われ、苦しみの海を渡って安らかな境地へ至ることができますようにと祈られています。
帰る所を失い海に沈んだ方には、仏光国師の祖国の人たちも大勢おられたのだと思います。
仏の世界には、何の差別もないことを示されて、敵であろうと味方であろうと、すべては等しく救われるのだと仰せになっています。
戦乱の世に生き、祖国を失うという深い悲しみを経験しながらも、敵味方の別なくすべての命を弔われた仏光国師の慈悲の心に、改めて深く学ばされるのであります。
横田南嶺