神と仏の深いご縁
昭和の終わり頃に、祇園の建仁寺におりましたので、毎年懐かしく思い出します。
岩波書店の『仏教辞典』に詳しく書かれています。
「素戔嗚尊を祭神とする京都八坂神社の祭礼、八坂の社名は神仏分離後の呼称で、それ以前は〈祇園社〉〈祇園感神院〉とよばれた。
古来、町衆が主体となって行う山鉾巡行で知られ、旧暦6月、現在は7月に催される。
社伝は869年(貞観11)6月,牛頭天王の祟りによる疫病を消除するため始めたと記すが、970年(天禄1)6月の御霊会に始まるとする説が有力である。
インドの祇園精舎の守護神と伝えられる牛頭天王は、蘇民将来伝説にうかがえるように、防疫の力も絶大な疫病神として民間で畏怖され、神道と習合して素戔嗚尊と同一視されるようになった。」と解説されています。
牛頭天王とは「頭に牛の角をもち、夜叉の如く、形は人間に似る。
猛威ある御霊的神格だったことから素戔嗚尊に習合され、京都祇園の八坂神社に祀られて除疫神として尊崇される」という神様です。
それが鎌倉にある八雲神社とも関わりがあるのです。
八雲神社は、鎌倉に数カ所ありますが、北鎌倉、山ノ内にもあります。
一二二四年(元仁 元年)に北条泰時によって、疫病退散のために四角四境祭が営まれ、その後、京都祇園社の神霊を勧請した牛頭天王社として信仰されるようになったのが山ノ内の八雲神社だと伝えられています。
その八雲神社のお祭りには御神輿が出ます。
御神輿が円覚寺の前を通るときには、管長が門の外に出て出迎えることになっています。
お囃子の声や太鼓の音が聞こえてくると、御神輿が近づいてきたことが分かります。
管長は、正装して出迎えることになっていて、正式の法衣を着て、大絡子をかけて迎えます。
曲彔という椅子に坐り、朱の大傘をかざしてもらいます。
御神輿も円覚寺の前で止まって一礼してくださいます。
こちらも一礼をします。
これだけのことですが、昔から行われていることで、神仏習合の名残とも思われます。
例年正午から御神輿が出ていましたが、昨今の暑さの対策か、午前十時に御神輿がでるようになっています。
行列の最後には救護隊もついてくれているのです。
御神輿が置かれているところには、前管長の足立大進老師が揮毫された素戔嗚尊の和歌が掲げられています。
八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣つくる その八重垣を
という和歌です。
これは最古の和歌とも言われるものです。
素盞嗚命は、八岐大蛇(やまたのおろち)を退治して、櫛名田比売(くしなだひめ)を救い出しました。
そして二人が夫婦となるため、新しい宮を造ったときに、この歌を詠んだと伝えられています。
幾重にも雲が立ちのぼる出雲の国に、愛する妻を守るため、幾重にも垣根をめぐらせた。その美しい八重垣よ。
このような意味合いです。
この和歌からは、大切な人を守ろうという温かい心が伝わってきます。
「あたかも母が己が独り子を命を賭けても護るように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、無量の慈しみのこころを起こすべし」とは、ブッダの教えであります。
八雲神社のことを調べてみると、かつて修行していた建仁寺の近くにある八坂神社と深いご縁があり、更に、今は素戔嗚尊をお祀りしていることになっていますが、そのもとは牛頭天王という祇園精舎の守護神だったというのですから、仏教にも深い縁があるのです。
もとをたどれば、祇園精舎とは、お釈迦様の時代に、舎衛城にあった精舎のことです。
舎衛城の須達長者が私財を投じて,祇陀太子の園林を買い取って、お釈迦様とその教団のために建てたのでした。
須達長者は身寄りのない者を憐れんで食事を給していたため、人々から「給孤独者」あるいは「給孤独長者」と呼ばれていました。
須達長者はお釈迦様の説法を聴いて感動して、お釈迦様の為にお寺を寄進したいと願いました。
そして祇陀太子の所有する土地を手に入れようとします。
祇陀太子は「必要な土地の表面を金貨で敷き詰めたら譲ってやろう」と戯れで言うと須達長者は金貨を敷き詰めたのでした。
もともとは祇陀太子の園林でしたので、祇樹といい、それから須達長者は給孤独長者というので、「祇樹給孤独園精舎」と言いました。
それが略して「祇園精舎」となったのです。
祇園はお釈迦様の話がもとになっているのです。
八雲神社にも、お釈迦様の祇園や、祇園精舎の守護神牛頭天王、そして京都の祇園社であった八坂神社、など神仏が深く関わっています。
そんな神と仏の深いご縁を思い、神仏に見守られ多くの人たちが幸せに暮らせますようにと願わざるを得ないのであります。
さまざまなご縁と長い長い歴史の中に私たちは生かされているのだと思います。
そんな思いで御神輿をお迎えしていました。
横田南嶺