殊勝を求めずとも
朝比奈宗源老師の『臨済録』には、
「偉そうにする気などなくとも、自然にすべてが尊くなる」と訳されています。
入矢義高先生の岩波文庫『臨済録』では
「至高の境地を得ようとしなくても、それは向こうからやってくる」と訳されています。
「殊勝」を求めることを、朝比奈老師は、「偉そうにする」、入矢先生は「至高の境地を得ようとする」と訳されています。
殊勝とはそもそもどういう意味か考えてみます。
『広辞苑』には
ことにすぐれていること。最勝。
②(神社・仏閣や説教などに)心うたれること。敬虔な気持になること。
③けなげなさま。感心なこと。神妙。」
と解説されています。
また「殊勝」は仏教語としても使われますので、岩波書店の『仏教辞典』には、
「とりわけすぐれている、卓越しているという意で、仏法僧の霊妙善美を形容する語として多く用いられてきた。
転じて、〈殊勝な心がけ〉というように、けなげな、奇特な、神妙な、などの意味で用いられる」
と解説されています。
大森曹玄老師は『臨済録講話』(春秋社)の中で
「真実の自己を知り、真正の見解をうるということは、別な言葉でいえば自分は自分であることを知り、それみずからで充足し、それみずからで絶対であると確信することでもある。その意味からいっても内外一切の束縛を受けるわけがないのである。だからそういう自覚をえたものは相対二元の世界に住しながら、それらの束縛から解脱して自由なのである。人間の世界において、一体これ以上の『殊勝・すなわち妙不可思議なことが、またとあるだろうか。』
と提唱されています。
山田無文老師の提唱は、実に丁寧に説いてくださっています。
禅文化研究所の『臨済録』から引用します。
「殊勝という言葉はいろいろな意味に解釈されるであろう。学問ができることも殊勝であるし、戒法を守っていくことも殊勝である。
威儀作法が如法であることも殊勝であるし、食うことに不自由せず、貧乏せんということも殊勝であるし、病気が治るということも殊勝であろうし、家庭が円満だということも殊勝であろう。
近ごろの新興宗教は、みんな、この殊勝を求めておるのだ。」
とまず釈されます。
それから更に、
「殊勝というものは付属品である。人間の着物である。
どんないい着物を着たところが、人間そのものの価値が分からなかったら、何にもならん。
人間そのものの価値が分かれば、上は何を着ておっても、どんな風采をしておっても、自由であるはずである。
しかも、求めなくても殊勝は自ずから至るというのだ。
病気をせんように、貧乏をせんように、人から好かれるように、金の儲かるように、商売の繁盛するように、道徳的に堕落をせんようにと、夢中になってそれを求めなくても、しっかりと見性さえし、真実に無字が分かっておれば、病気なんぞするものではない。
食うにも困るはずはない。
求めんでも、人がついて来る。
求めんでも行ないが正しくなる。真正の見解、人間性の真実さえつかんでおれば、裸でおっても困りはせん。
根本の人間性の真実を無視しておいて、自分の価値を棚に上げておいて、金の儲かるように、病気の治るように、商売繁盛するようにと、外のことばかり求めておるのが、今日の宗教だ。
人間に本当に価値があれば、そんなものはいくらでも困るほどついて来る。」
と提唱されています。
「殊勝を求める」ということは、臨済禅師の言葉によれば、「造作」にあたると思います。
臨済禅師は繰り返し造作すること莫れと説かれました。
臨済録の中には「汝言う、六度万行、斉(ひと)しく修すと。我れ見るに皆な是れ造業。仏を求め法を求むるは、即ち是れ造地獄の業。菩薩を求むるも亦た、是れ造業。看経(かんきん)看教(かんきょう)も亦た是れ造業。仏と祖師は是れ無事の人なり。」という言葉もあります。
入矢先生は「君たちは、六度万行をすべて実修するなどと言うがわしからみれば、みんな業作りだ。仏を求め、法を求めるのも地獄へ落ちる業作り。
菩薩になろうとするのも業作り。経典を読むのもやはり業作りだ。仏や祖師はなにごともしない人なのだ」と訳されています。
六波羅蜜を修めるとか、仏を求めるとか、経典を読むとかいうことは、みな造作であります。
無文老師が「人間性の真実さえつかんでおれば」と仰せになっていますが、臨済禅師の言葉でいえば「無位の真人」を自覚しておればということです。
他の言葉でいえば、仏心に目覚めておればということであります。
その人の本当の尊さに目覚めていれば、人から認められようとか、ことさら立派なことをしようと思うことはいらないのです。
この後のところで、臨済禅師は、人にだまされるなと強く説いておられます。
更に言えば、仏教で至高の境地とされる解脱を求めようとしなくても、すでに解脱をしているのだということでもあります。
仏になろうというよりも、仏であることを自覚するのが、禅の本領であります。
殊勝は求めて得るものではなく、本来の自己に目覚めたところに、おのずから現れてくるものなのであります。
横田南嶺