いのちは誰のものか
信国先生には『いのちは誰のものか』という著書があります。
昭和五十五年発行の書籍であります。
私はこの本を愛読していました。
心打たれていたのでした。
まだ十六歳の頃であります。
この本には、信国先生の専修学院における入学式や卒業式の言葉なども収められています。
信国先生は、いつの場合にも前もって原稿を作り、それをもって語られたそうです。
その中にこの本の題名ともなっている「いのちは誰のものか」という一章があります。
この題については、信国先生が、かつて鈴木大拙先生のベアトリス夫人が、大谷大学の学生のため編築された英語の教科に載っていた釈尊の前生譚を扱った一つの短い文章にある物語がもとになっています。
こんな話であります。
ある日のこと、まだ少年のお釈迦さまが、従弟の提婆と一緒に森に遊びに行かれました。
提婆は、折から森の上を悠々と飛んでいる白鳥を目ざとく見つけて、早速、持っていた弓に矢をつがえ、はっしとばかり射落としました。
白鳥はばたばたと森のかなたに落ちて行きました。
お釈迦さまと提婆と二人の少年は、早く獲物を手にしようと、鳥が落ちただろうと思われるところに走ります。
ところがお釈迦さまの方が、提婆より少し早目に、傷ついて地上で喘いでいる白鳥を見つけて抱え上げました。
そこに提婆が現われました。
提婆は、この鳥を射落としたのは自分だから、鳥をよこせとお釈迦さまに迫ります。
けれどもお釈迦さまはお釈迦さまで、これは自分が先に見つけたのだから自分のものだ、といって譲ろうとしません。
こうして二人の少年の間に争いが続きます。
それでどうなったかというと、国中の賢者を集めてその意見を聞いてみようということになりました。
国中の賢者が集められて、意見が出されたのですが、やはり提婆のものだという者もいれば、お釈迦さまのものだという者もいて意見はまとまりません。
ところが最後に、それまで黙っていた一人の年老いた賢者が立ち上がって言いました。
「すべていのちは、それを愛そう、愛そうとしている者のものであって、それを傷つけよう、傷つけようとしている者のものではないのだ」と。
そう言い切った賢者のことばが、あまりにも厳粛な調子を帯びていたので、一座の者は、思わず水を打ったように静まりかえり、自然とそこに、その賢者のことばに従わずにはいられぬような空気が生まれました。
こうして傷ついた白鳥は、ついにお釈迦さまの手に帰ることになったという話が書かれています。
そこから信国先生のお話が続くのです。
信国先生は「いのちは本当に自分のものなのか」という問いを深く掘り下げます。
まず、自分の体や心を「私のもの」と考えるのが当たり前のように思っています。
そして信国先生は、この短い物語にある釋迦と提婆という二の自己があるのだと説いています。
更に信国先生は、私たち人間は実は「提婆」でないものはないというのです。
「自ら気づくと気づかぬとにかかわらず、自他のいのちを深く傷つけているといわなければならぬものだと説いています。
その自覚があってこそ、そのために私達には絶えず苦悩が起こり、必然的に苦悩するいのちの要請として、愛する「釋迦」というものがどうしても私達の内に現れてこなければならぬというのです。
まずお互いはいのちを傷つける提婆であるという自覚から始まるというのは、浄土真宗的であります。
信国先生は、「私どもは、誰もみな、同じ一つの命を享けながらこの世に生まれてきたのであります。
しかるに私どもは、又確かに誰もみな、「我」という意識、「自分」という思いをもってこの世を生きなければならぬものであるのです。
ところでそのように、我という意識の支配下でいのちを生きるということは、とりも直さず私どもが、誰にも等しく与えられ、誰もが共有するそのいのちを、自分の命、他人の命というふうに区別して生きることにほかならぬのでありますし、それにそうした区別の上で、自分の命をこそ優先させて生きようとするわけなのでありまして、いきおい私どもの生きることは、他人の命と自分の命との間を引き裂いて、自他の命の通いを断ち切りながら生きるよりないということになってしまうのです」と説かれています。
そのような自己をしっかりと見つめた上で、更に信国先生は、
「さて、そのような私どもの自我の意識に不可避的にまつわるところの運命が、私どもの存在の孤独と不安ということでありましょう。
その孤独と不安とは、私どもの自我意識に具わる違逆性が、ーその完全な愛の欠如が、自ら招くところの罰ともいうべきものであります。
ところでそういう私どもに対し、何が真実の愛であるかを教えるもの、そして私どもを私どもの孤独と不安とから救うもの、それはただ如来の無我の智慧というものであって、その自と他とを分け隔てぬ如来の智慧を賜わって、私どもに生まれる私どもの新しい我の意識というものだけが、それを救うことができるのだといわなければならぬでしょう。
如来のそうした無分別智によって私どもにおいて成り立つ我の意識というのは、それが無分別智であることによって、我といっても、もはや世界に対立する我ではありませんし、むしろ世界と一体をなすところの我であります。」
と説かれています。
信国先生は、如来の大悲というのは、白鳥の話でいえば、私どものいのちを愛そう、愛そうとしているものだというのです。
信国先生の説かれる信心というのは、この一切を捨てることのない如来の大悲心なのであります。
本来の自己というのは、一切の命ある者の苦悩を捨てることのない愛の人であり、大悲の人であると説かれています。
いのちを自他に切り分けて暮らさざるを得ないお互いをまず認めて、そのような私たちを捨てずにお救いくださるのが如来の大悲であると説いて、それこそが本来の自己であるというのであります。
禅では直に己の心がそのまま仏であると説くのですが、浄土門ではまず己の愚かさを見つめて阿弥陀様の大悲を通して本来の自己を説いています。
帰するところは同じなのだと思います。
いのちは誰のものか、久しぶりに読み返して考え直しています。
横田南嶺