その人のために自分の時間を使うこと
お互いにそれぞれの話を聞いた感想から話し始めました。
松山さんは、アルフォンス・デーケンさんの『生と死を考える』という書物に出会って、死について学ぶようになられました。
そして更には、インドに行ってマザー・テレサの慈善施設『死を待つ人々の家』で奉仕活動をなさるのです。
鼎談で松竹老師が、庵主さんに「マザー・テレサのもとへ行こうと思われたきっかけは何だったのでしょうか。」と尋ねられました。
それに対して「きっかけは、本を読んだことやテレビを見たこともありましたが、やはり大きかったのは、学生時代に参加していたデーケン先生の「生と死を考える会」でございました。
そこで実際にインドへ行かれた方のお話を聞いたのであります。その話を聞いた瞬間、「私も行きたい」と思ったのでした。」
というお答えでした。
そこから半年ほどかけて準備をなさったそうです。
英語はほとんど話せなかっと仰っていました。
体力も必要だと思い、毎日五キロほど歩いて、その時に歩きながら、ずっと英会話のテープを聞いていたそうです。
そしてインドに行って、現地の施設でボランティアをなさったそうです。
「死を待つ人々の家」では、さまざまな病を抱え、死を宣告されたような方々が大勢いたそうなのです。
その体験を通して、強く感じたことは「たとえ家族がなくても、お金がなくても、人間にとって最も大切なのは、「自分が人として愛されている」と感じられることなのだ」と仰っていました。
人として愛情を感じること、そのことがどれほど大切かを、身をもって教えられたというのです。
「どれくらいの期間、向こうにおられたのですか」と私が尋ねますと、「当時は、介護の勉強もあり、仕事もあり、学校もございましたので、春休みの二週間ほどだった」ということでした。
看護学校が終わったその足で出国し、学校が始まる前日の夜に帰国するという、かなり慌ただしい日程だったそうです。
しかし残念ながら、その頃にはマザー・テレサは中国へ行っておられて不在だったそうです。
シスター方は、「イースターには戻って来られるから待っていなさい」と何度も言ってくださったようですが、とうとう帰って来られず、庵主さんはそのまま帰国されました。
そんなマザー・テレサの話をうかがった折に、松竹老師が、庵主さんに「人が死にそうな時に、何をすれば一番喜ばれるのでしょうか」と尋ねられました。
庵主さんは「はい。私は、「何かをすること」ではないと思っています。」と即答されました。
何か特別なことをしたから、その人が幸せになるのではないというのです。
「そうではなく、自分の時間をその人のために使うこと、それが何より尊いことではないかと思うのです」と仰いました。
ただそばにいるだけでいい。
手を握っているだけでもいうというのです。
そしてその日の大勢の聴衆を見渡しながら、「もし、この中に、「もっと何かできたのではないか」と後悔しておられる方がいらっしゃるなら、どうか、ご自分がその方のそばにいた、その時間そのものが尊かったのだと思っていただきたいのです。」と語ってくれていました。
病院へ行った。
施設へ通った。
そのために時間を使った。
それこそが、かけがえのない愛情であったのだというのです。
「何かをしなければならないわけではありません。
何か結果を出さなければならないわけでもありません。
ただ、一緒に生きる。
共に過ごした、その時間が尊いのです。
私はそのように思っています。」と静かに、それでいて力強く語ってくれました。
その話をうかがって私は、その禅文化の講座の前の日に、父の四十九日納骨の法要の為に、ふるさとに片道七時間かけて、往復して前の夜遅くに帰ってきたところだということを申し上げました。
父の施設にお見舞いに行くのも、お別れに行くにも片道七時間かかるというのは大変だったのでした。
そのことをお話して、七時間かけて行ったということも良かったのでしょうかとうかがいました。
庵主さんは「はい。私は、それで良かったのだと思います。」と答えてくださいました。
「七時間という、ご自分の命の時間をその方のために捧げられた、そのこと自体が、どれほど尊いことでしょうか。」というのです。
「私たちは普段、ずいぶん無駄な時間を過ごしてしまったと思うことがありますが、しかし、本当は、時間そのものが命なのです。
だからこそ、その方のために使った時間は、何より大切だったのだと思います。
遠くても良かったのです。
その七時間には、深い祈りが込められていたのだと思います。」
と仰ってくださって、私は感激したのでした。
自分の時間を使ってそこに行ってあげる、そして、そこにいる、そのこと自体が愛情なのであり、尊いことだというのです。
そのあと、在宅医療に携わる看護師の方より、次のようなご質問がありました。
在宅の看護師として働いておられるそうで、在宅の現場では、“どのように死を迎えたいか”ということに向き合わなければならないのですが、看護師として無力感を覚えることがあるというのです。
その方は「痛みや苦しみには薬で対応できる部分もありますが、死への恐怖や精神的な苦痛、心の痛みに対しては、なかなか力が及ばない」と言われます。
その中で、看護師自身も疲弊し、辞めていく人も少なくないというのです。
そんな中で何か特別なことをするのではなく、何もしなくてもいい、そばにいるだけでいいという言葉に救われたと仰っていました。
その方は「しかし一方で、看護師として“何かしてあげなければならない”という葛藤もある」と言います。
そこで庵主さんに「もしもご自身が看護師として現場に戻られるとしたら、仏教の学びや今までの経験をどのように現場で活かされるでしょうか。」と質問されました。
庵主さんは、「死を目前にした方と向き合う時には、まず自分は何者であるかということを、一旦横に置いてみてください。
看護師として、僧侶として、専門家として―そういう肩書をいったん離れて、『共に生きる一人の人間』として、その方のそばにいていただきたいと思います。」と語られました。
更に「死が怖いからといって、少し距離を取るような関わり方ではなく、むしろ前のめりになるくらい、一緒にいていただきたい。一人の人間として、その方の死に関わるということを、大切にしていただきたい」と仰っていました。
ご自身の体験に裏打ちされた深いお言葉でありました。
横田南嶺