まず自分を信じる
株式会社TKCの創業者である飯塚毅氏は、禅を深く実践されていた方であります。
那須の雲巌寺の植木憲道老師について参禅なされていた方でありました。
そのご子息である飯塚真玄氏は、お父様の薫陶を受けて、学生時代から円覚寺に通って朝比奈宗源老師について参禅をなさっていました。
今の社長は、その真玄氏のご子息である飯塚真規(まさのり)氏であります。
そんな代々の深いご縁があります。
坐禅会には社長もお見えになっていました。
このたび新しく居士林を再建したのも飯塚真玄氏のご支援あってのことであります。
毎年TKCでは円覚寺居士林での坐禅会を継続なさっています。
そこで私もお話をさせてもらってきています。
今回も坐禅会のはじめに私が一時間ほどお話をしました。
そのあと、居士林の内田一道老師のご指導のもとで坐禅が行われました。
私は「心の調え方」と題して話をしました。
『天台小止観』の二十五の方便をもとにして話をしました。
はじめに具五縁といって、五つの条件を調えることが説かれています。
生活においてよい習慣を身につける(持戒)。
着る物、食べるものなど生活の環境を整えること。
煩わしいところから離れて静かなところにいること。
世間のしがらみや情報過多の状況から離れること。
よき指導者を得ること。
の五つであります。
良い習慣を身につけるというのは戒を守ることです、
戒の基本は、
生き物をむやみに殺さない、
人のものを奪わず、壊さない
嘘偽りを口にしない
道に逆らった愛欲を起こさない
酒に酔ってなりわいを怠ることをしない
の五つです。
この五つにしても、この居士林に来て坐っている状態では守られています。
またこういう環境に来れば、自然と静かなところに身を置くことができますし、また情報過多の状態からもひととき離れることができます。
こういうことは現代においては益々必要になってくると思います。
いつも情報から離れて暮らすことは不可能ですが、その情報から離れる時間と場所を持つことが大事になるとお話しました。
それには坐禅が一番いいのですが、山が好きな人は山に登るというのもいいものです。
静かな環境ですし、いっとき情報過多から離れることができます。
こうして居士林に来て坐禅をすればそれがすでに達成されます。
そして内田老師という良き指導者もいますし、ともに学ぶ仲間にも恵まれています。
次には、「呵五欲」といって五欲を制することです。
目を刺激するものから離れること。
耳を刺激するような音から離れること
鼻を刺激するような香りから離れること。
味覚を刺激するようなものから離れること。
身体に触れる快感や不快な思いから離れること。
この五つも居士林に来て坐禅をすればおのずと達成されています。
そうしてみると、居士林に来て坐っているというだけで、すでに二十五のうちの十ができているのです。
そのあとは「棄五蓋」といいます。
むさぼりを離れること。
怒りを離れること。
心が暗く沈む状態から離れること。
心が振り回されて落ちかない状態から離れること。
師の教えや、仏の教えを疑うことから離れること。
の五つです。
そして「調五事」といって五つを調えます。
適度な食事をとること。
適度の睡眠をとること。
身体を調えること。
呼吸を調えること。
心を調えること。
の五つです、
このあたりがとても重要なところなので、具体的に様々な実習方法をお伝えしました。
そして最後に「行五法」で、
仏道を願い求めること。理想を求めること。(欲)
努力を続けること。(精進)
悟りを得よう(理想を実現しよう)と念じ続けること。(念)
悟りを得る(理想の実現)為にどうすればよいか工夫すること。
心を一つに集中して専念すること。(一心)
という五つの実践となります。
二十五の内のはじめの十までは居士林で坐っているというだけで達成されています。
そのあとの五蓋あたりから取り組まないといけません。
五蓋をなぜ「蓋」という、「蓋う」、蓋(ふた)という字を使っているかというと、お互いの心は、本来澄んでいて、物事をありのままに見る力があるのですが、その心の働きが、ある種の煩いによって覆われてしまっていると考えているのです、
それが五つあるのです。
その終わりに疑いがあります。
何を疑うのか、『天台小止観』には具体的に説かれています。
大東出版社の『現代語訳 天台小止観』にある関口真大先生の現代語訳を参照します。
「疑が心を覆うてくると、なにごとにおいても信ずる心がおこらない。
信ずる心がないのだから、仏法のなかにおいても空しくして獲るところがない。
たとえば人が宝の山に入ったとしても、もし手がなかったらよくそれを取るところがないのと同じことである。
また、疑う心ははなはだ多いけれども、それがみな禅定をさまたげるとはかぎらない。
とくに禅定をさまたげる疑いは、つぎの三種である。
一には自分自身を疑うこと、二には師を疑うこと、三には法を疑うことである。
一に自分自身を疑うとは、こんな心になってしまうことである。
自分は頭もよくないし罪や垢も人一倍多い、それに適した人間ではないと、このように自分自身を疑ってしまったのでは、禅定の法はついに発するとはできない。」
とあります。
自分自身には本来素晴らしい心が具わっているのですが、これを疑ってしまうのです。
ではどうしたらいいのか『天台小止観』には、
「これを取去るには、なによりもまず自分自身を軽んじてしまわないことである。
自分の根性には測りがたいものがあるのである。」
と説かれています。
朝比奈宗源老師も、坐禅をするときの心構えとして「人間は誰でも仏と変わらぬ仏心を備えているのだ。これをはっきりと信じ、言わば此処に井戸を掘れば必ず井戸が出来、水が出るという風に、信じ切らねば井戸は掘れぬ。掘れば出ると思うから骨も折れる。だから我々の修行もそれと同じだ。仏心があるとは有り難いことだと、こう思わねばだめだ。」と説かれています。
臨済禅師もまた「この頃の修行者たちが駄目なのは、その病因はどこにあるか。病因は自らを信じきれぬ点にあるのだ。もし自らを信じきれぬと、あたふたとあらゆる現象についてまわり、すべての外的条件に翻弄されて自由になれない。」と説かれています。
まずこの自分自身を信じて実践することが大事なのです。
そんなお話をしたのでした。
横田南嶺