呼吸の工夫
学生の頃からよく円覚寺で坐禅をなさっていた方のお見舞いをした話が書かれています。
老師が円覚寺に修行に見えた頃から、学生として熱心に坐禅に打ち込まれていた方がガンになってしまい、余命幾ばくもないというのです。
相当に禅の修行に打ち込まれた方なのだからというので、老師はお見舞いに
どこの土になろうとままよ落ち葉かな
という句を認めた短冊を病室にもってゆかれたと書いています。
本には、「ご家族の方はドキッとしたかも知れない。
まあ本人はとうとう来たかくらいには受け取られたと思う」と書かれています。
坐禅に打ち込まれた者同士だからこそ、できることであります。
面会ではご家族の方もいらっしゃったので、老師は最期は「アリガトウ」だよと言って病院を後にされました。
しかし、円覚寺にお帰りになって更にお手紙を書いて出されたという話です。
その中に、
「死」は必定の栖処
安らかに迎えたまへ
もう世界のことも 日本の
ことも もちろん会社のことも
放念し ただ家族のことを
念じ 最後は
「無字」の息を丹田に
その呼吸にまかせよ
という一節があるのです。
この中の「無字の呼吸」については、老師は「坐禅する時に、自己の丹田に心を収めて天地一枚の「無」に成り切る要領のこと」と解説してくださっています。
この本には「末期の一呼吸」という章があります。
ここに呼吸のことが詳しく書かれています。
坐禅はまさに呼吸の工夫でもあります。
一部を引用します。
「坐禅をなさるときには、競馬の馬が馬場を何回も走って来たというような荒い呼吸はいけない。
あくまで静かに、綿綿密密です。
出ているのか入っているのか分からないようにして、そして、下っ腹をゆっくり前ヘ押し出していって、鼻から細く呼吸がスーッと自然に出ていく。
鼻で呼吸しようとしないで、奥歯を嗆みしめておいて、下っ腹をゆっくり前に拡げる。
ズーッと押し出してごらんなさい。
そうすると、鼻から自然に細く息が出ていくんです。
そういう呼吸の時の気持ちとしては、あの軽い羽毛(鳥の毛)を鼻先に持ってきても、飛ばないくらいにと昔から言われております。
それほど、静かな呼吸をしなければいけないわけです。
坐禅をする上で、その呼吸ということが非常に大切である、坐禅の基本は呼吸であると、まず申し上げておきたい。」
というのであります。
ここに書かれていることなどは、私はご生前なんども老師からお話いただいたものでした。
そのあとにお釈迦様の話が書かれています。
お釈迦様がある時に人の命の長さはどのくらいか?とお弟子さん達に尋ねられました。
ある弟子は「数日の間です。」と答えました。
あと数日で命が終わるかもしれないという心構えで修行をしますということであります。
それに対してお釈迦様は「それでは仏道の教えがわかっていない。」と言われました。
また別の弟子が「それは食事の間です。」と答えました。
今日この食事を食べ終わったら死んでしまうかもしれない、というのですが、それもお釈迦様はわかっていないとうけがいませんでした。
最後にある弟子が「人の命は呼吸の間にあります。」と答えました。
それにはお釈迦様も「汝道を知れり」と、仏法がわかっているとお褒めになったのでした。
その話を書かれたあとに、「末期の一呼吸」について説かれています。
「坐禅をするときに、私が、呼吸のことで「未期の一呼吸と心得て坐れ」と指導いたしております。
末期の一呼吸、末期というと一番最後ということです。
分かりやすく申しますと、今、こうして、ズーッと下っ腹を出しながら、呼吸を吐いていく。
その一呼吸でこの世ともうお別れだと、そういう気持ちで、坐れというんです。
今ズーッと吐いていく呼吸が終ったところで、自分の命が最期であると、こうなれば、人間、もう欲ばったってしようがない。
どんないい亭主がいてもだめだし、どんなにお金がたくさんあってもだめですし、どんな立派な家に住んでいてもだめ。
逆にお金がすってんてんで、何もなくたってかまわないし、どんな汚い家に住んでいてもかまわないんです。
どんなに寒くてもかまわないし、どんなに暑くてもかまわない。
ほんとうに末期の一呼吸、この一呼吸が、終ったところで、もう自分が御仕舞だと、もっと分かりやすく言うと、自分が一呼吸終ったところで、後に首切り役人が刀を持っていて、終ったところでバサッと首を落される、こういう気持ちで暮したときに、人間何が不足ですか、何が足りないですか、何にも言うことないでしょう。
そういうふうな気持ちで、一呼吸一呼吸積み重ねていきますと、心なんていうのは、いつの間にか、ほんとうにきれいになってしまうんです。」
と丁寧に説いてくださっています。
長い呼吸をしていると、お経を誦んでも息継ぎが少なくなります。
息継ぎが多いと、よく注意されたものです。
老師は本の中で、ご自身、般若心経ならば早く誦めば二呼吸とちょっとくらいで誦めると書かれています。
お経を誦むときにはなるべく息を継がないで読むようにと指導してくれていました。
それには慣れないお経を経本を見て誦むよりも、短いお経がいいし、意味の分からない方が無心に誦めていいとも書かれています。
坐禅の時、お経をあげる時、また道を歩く時、どんな時でも呼吸を長くするようにとご指導をいただいたものです。
先日揖斐川の大興寺様で「我が師の恩」と題して、そんな老師の教えをお伝えしていました。
横田南嶺