達磨大師の墓参り
しかしながら、この達磨様ほど日本において親しまれている祖師はいないと思います。
達磨大師は、「達磨落とし」などいう子供のおもちゃにもなっています。
「だるまさん、だるまさん、にらめっこしましょ」などいう子供の歌にもなっています。
それほどまでに親しまれている達磨さまですが、実際にはどんな方であったか、よく分かってはいません。
もっとも言い伝えられていることはいろいろあります。
筑摩書房の『禅の語録1達摩の語録』には、その「はじめに」に柳田聖山先生が、次のように書かれています。
「中国禅宗の初祖としてのダルマの史実は、ほとんど確かなことがわからない。
一般には、宋初にまとめられた『伝灯録』(真理の火を伝える書)や、『碧岩録』(碧い岩の寺での集錄)などの公案により、かれが南インドより海路はるばる中国に来て、南海広州の地に上陸したことや、梁の武帝との会見のものがたり、さては、武帝の学間仏教を嫌って華北に去り、嵩山少林寺にひとり坐禅をつづけていたとき、のちに二祖となる惠可が、かれに参じ、片一方の腕をきってその誠意を示したので、ついに無上の心法をつたえたなどという話が知られているが、いずれも中国禅の理想を人格化したもので、他の歷史的な人物の伝記とは、かなり性質を異にする。
まして、かれの語錄とよばれるものは、一個の歴史的人物としてのダルマが自から書いたものでもなければ、かれの説法の言葉を伝えるものでもない。
それらはすべて、かれを祖とする初期禅宗のひとびとの多くの主張をまとめたものであり、ふつうに禅の語錄とよばれるものの中でも、いっそう特殊なものである。」
と書いておられます。
実に簡潔にまとめてくれています。
伝灯録などで伝わっている話は「中国禅の理想を人格化したもの」だというのであります。
私などが修行時代に聞いた話では、達磨大師は南インドの香至国の王子様としてお生まれになりました。
第三王子でありました。
あるときに香至国にお釈迦さまから二十七代目の祖師である般若多羅尊者が訪れました。
ときに香至国の王様は尊者に、世に二つとない素晴らしい宝玉を献じました。
尊者はそれを受けて三人の王子たちに問いました。
これは素晴らしい玉であるが、この素晴らしさに及ぶようなものはこの世にあると思うかと。
長男の月浄多羅も次男の功徳多羅も、「これは世に二つと無い素晴らしい宝玉です。尊者のようなお方で無ければ受け取ることもできません。尊者こそお持ちになるに相応しいお方であります」と答えられました。
さらに三男の菩提多羅に質問しました。
すると菩提多羅は、「それは世間の宝に過ぎないものであって、真理の光にはとても及ぶものではありません」と答えました。
「法という正しい真理こそが真の宝である」と答えたのでした。
これは見所があると般若多羅尊者も思われました。
その後、香至国の王様がお亡くなりになってから、三男の菩提多羅は般若多羅尊者のお弟子になって修行に励まれました。
尊者がいよいよお亡くなりになるにあたって、自分の死後六十七年を過ぎたら、インドから中国にいって仏法を説けと遺言されました。
果たしてその通り、尊者のご遷化の後はるばる海を渡って三年かけて達磨大師は中国にお見えになりました。
それが景徳伝灯録では普通八年といって西暦五百二十七年のことだと言われています。
碧巌録では普通元年となっています。
梁の武帝と問答をして嵩山の少林寺で面壁坐禅されていました。
そこで二祖となる慧可を導きました。
達磨大師は、二祖慧可大師をはじめとする門弟達をお育てになり、とうとうお亡くなりになって熊耳山に葬られます。
ところが魏の国の宋雲をいう者が皇帝の使いで西域に行っていたのが帰ってくる途中、葱嶺というところで達磨大師とばったり出会います。
「達磨様ではありませんか。どこに行かれますか」と宋雲が聞くと達磨様は片方の靴を手にしたまま、これからインドに帰るのだと言います。
ところが宋雲が魏の国に帰ってみると、達磨大師は既に亡くなって熊耳山に葬ったと言います。
はておかしな事もあるものだ、自分は確かに葱嶺で片方の靴をぶら下げて歩いている達磨大師に出会った、そんなはずはないと思って、墓を掘り返して見るとお棺の中には、達磨様のご遺体は無くただもう片方の靴だけが残っていたという話です。
そんな達磨大師のお墓が熊耳山にありました。
達磨大師のお墓にお参りした臨済禅師の話が『臨済録』にあります。
岩波文庫の『臨済録』にある入矢義高先生の現代語訳を参照します。
「師が達磨の墓のある寺へ行った時、その住職が言った、
「長老は先に仏を礼拝されますか、それとも先に祖師を礼拝されますか。」
師「仏祖師両方と礼拝しない。」
住職「仏と祖師は、長老とどんな仇かたきの仲なのです。」
師はさっと袖打ち払って立ち去った。」
という話です。
黄檗禅師のもとで修行を仕上げて行脚されていた頃の話だと思われます。
後に「仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し」と説かれ、また「仏とはわれわれと同じ空蝉であり、祖師とは年老いた僧侶にすぎない」と喝破されるようになるのです。
臨済禅師の頃には、達磨大師の伝説もいろいろあったものと察せられますが、そんなところに祖師はいないぞと言いたいのです。
臨済禅師は、「祖師や仏を知りたいと思うか、今私の面前でこの説法を聴いている者こそがそれだ」というのであります。
横田南嶺