すきまを大事に
そこで、よく聞かれるのは、いつ文章を書いたり録音したりしているのですかということです。
これは決まった時間はないのです。
本を読むのも、本を読むという時間があるわけではありません。
原稿を書くのも、原稿を書く時間があるわけではありません。
録音とて同じであります。
毎日なにかしらの予定が入っているものですが、その分すきまもあるものです。
そのすきまの時間に、本を読んだり、文章を書いたりしています。
これは修行時代からの習慣でもあります。
修行時代には、本を読む時間などあろうはずもありません。
勉強する時間も場所もありません。
それでもすきまの時間で本を買っては、すきまの時間に自分で勉強するのです。
ちょっとした時間があれば、一ページか二ページでも読めるのです。
そうしてすきまを利用してきたので、その習慣が身について、今もいかされているのです。
はじめ塾の二代塾長の和田重宏さんの『観を育てる 行き詰まらない教育』という本を読んでいると、「すきま体験」という一章がありました。
こんなことがはじめに書かれています。
「テレビタレントのタモリさんが、駆け出しの頃、「今の子どもたちの生活にはすきまがないからかわいそうだ。オレたちのガキの頃は、すきまだらけだったから何でもやれた。知らぬは親ばかりだった」というような話をしていたことがありました。
妙に私の心に響いた言葉でした。あれ以来「すきま体験」という言葉を気にしながら現在に至っています。」
というのであります。
和田さんは、更に
「人間形成ですきま体験が持つ意味はすごく大きいと思います。
何から何まで管理されてきた子どもは行きづまっています。
今日は何々の習い事、明日は何々というように、ずっと予定で埋められて、知識と技術をたくさん身に付けさせられている子どもたちが多くいます。
しかし、いくら知識を持っていても、ピアノを彈くとか泳げるという技術を持っていても、すきま体験の不足している子どもは、自発的に自分で何かをすることができません。
常に何かを与えられ指示されていて、それ無しでは自分で判断して自発的に行動することができない、いわゆる指示待ち症候群の状態に陥ってしまっています。
ですから、自発的な行動ができる人を育てたいのでしたら、時には何も働きかけをしないことが教育の内容に含まれていなければ、本当の教育ではないことになります。」
と書かれています。
そして「突き詰めて言うと、すきま体験をするというのは、本当の自分に出会うということです。
外からの働きかけのない解放されたところで、全く自分一人で、脚色なしの本当の自分に出会えるすきま体験は、行きづまらない生き方を実現していくのに決定的な役割を果たします。」
というのです。
たしかにその通りだと感じます。
もっともいくら管理されていたとしても、なんとかすり抜けてでもすきまを作るくらいの気概を持ってほしいものだと思います。
和田さんは、
「今の教育の現場や、お母さんたちが子育てをしているのを見ていると、できるだけすきまを作らないようにしていきます。
私は教員だった時に、行事係をよくやったのですが、学校では、できるだけ子どもたちを自由にしないようにしていました。
今でも同じ考えで行われているのではないかと思います。
安全管理などの諸事情も加わって、まるですきまを埋めることが教育だと思っているようです。
反対に塾の生活では、本当の自分に出会えるといいと思っていますので、できるだけすきま体験ができるように日課を作っていきます。
その人の人格がバランスよく形成されるためには、すきま体験はいい肥やしになります。」
とも書かれていました。
すきまでだらけてしまうこともあるかもしれませんが、それもまた休みを必要としているのだと思います。
すきまには、解放されて自由でのんびりした印象がありますが、急なこともあったり、危険なこともあるものです。
雷の体験もこの本で読んでなるほどと思ったことでした。
こんな話です。
「これは西丹沢でのことですが、何人かの子どもたちが、山の寮の下にある河原で泳いでいる時に、突然雷が来て、懸命に逃げ帰って来たことがありました。」
雷は恐ろしいものです。
特に山の中では一層恐ろしく感じます。
和田さんも
「山の雷はすごいんです。
稲光がして、だーんと地を揺るがすような強烈な雷が、突然来るんです。
河原から寮まで走って十五分かかるんですが、一番小さい子はまだ幼稚園児でした。
泳いでいたら、いきなりバーンときて一瞬のうちに真っ暗になって、稲妻が横に走るんですから、それは怖いんです。
そんな状況の中で一目散に寮に駆け上がって来たわけです。」
と書かれています。
車で迎えに行ったそうですが、子供たちは近道を通って、すれ違ってしまったそうです。
「そんな時は命がけですから、幼稚園の子どもも必死でした。「僕を忘れないで!」と大声で叫んだそうです。
その子を大きい子が背負って、本能的に身に付けている金具は全部捨てて、十五分の間登り詰めで息せききつて上がって来たんです。」
というのです。
そこで「もつと面白かったのは、中学二年生で喘息の発作を繰り返し起こして、どんな治療をしても治らない子がその中にいたんです。
喘息の子どもとしては、気温がぐーつと下がって最惡の状況だったはずなのに、必死に走って来てしまったのです。
普段の余裕のある時なら艳対にできないことです。
それをやってしまつたのです。
それっきり、その子は喘息を起こさなくなりました。
偶然にできてしまって、自信がついたのだと思います。」
と書かれています。
もっとも和田さんも「こんな危険な事は意図的にはできません。
全く偶発的なことです。
教育は計画的なものであったら、育たない部分もあります。
偶発的に起こったことをきちつと受けとめて、どのように対処するかということが、本当の教育だということを、その時つくづく感じました。」
と書かれていて、「これも広い意味でのすきま体験です」と書かれています。
もっともこのような偶発的なことを意図的に行おうとすると大きな間違いとなってしまいます。
すきまに訪れる何かが人生を変えることもあるものです。
すきまは大事にしたいものです。
横田南嶺