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臨済宗大本山 円覚寺

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2025.07.01
今日の言葉

坐禅が楽しくなる

本日七月一日であります。

早くも七月になりました。

六月の修行道場の摂心では、『坐禅儀』を読んでいました。

筑摩書房の世界古典文学全集に、『坐禅儀』の訓注があります。

大森曹玄老師の訳であります。

こんな一節があります。

「左に傾いたり右に傾いたりしないように。

前かがみになるのも、反りかえりすぎるのもよろしくない。

腰・背・頭・頂などの骨節が、ちょうど五輪塔などのように、まっすぐに積み重ねられて安定しなければいけない。

あまり反りかえりすぎると、呼吸がせわしく、不安定になる。

そして耳と肩とが垂直になり、臍と鼻とが一直線上にあるようにし、舌先が上の腭につき、唇と歯とを密着させ、目は微かに開いて居睡りを防ぐ。

このようにして三昧境に達するならば、その活々とした定力は何ものにも勝る。」

「むかし、坐禅に親しみ、打坐三昧で過していた高僧があったが、その人はいつも目を開いて坐っていた。

また前法雲寺の住持、円通禅師は、これまた目を閉じて坐禅する者を叱って「この闇がりの幽霊め」といった。

それには深い理由のあることで、禅定に熟したらよくわかるであろう。

こうして姿勢が定まり、呼吸が調ったなら、今度は心を整える。

それには臍腹の辺をゆったりとして、しかも充実させる。

是非善悪という二元的な思量分別は、一切これを放棄してしまう。

もしなんらかの事にふれて念が起ったならば、それを継続せず省覚を加えるがいい。

そうすればその念は立ちどころに消え失せる。

このようにして根気よく久しくやっているうちに、すベての関り合いを超え、ついに内と外、思うものと思われるものとが一つになる。

この打成一片という三昧境が坐禅の急処である。

私の思うには、坐禅というものは、身体が安らぎ、心の悩みが除かれて楽しくなるところの法門である。

ところが世間には坐禅をしてかえって病気になるものもいるが、それは心がけが正しくないからであろう。」

というものであります。

坐禅についての親切なお示しであります。

腰と背筋と頭と首とを、それぞれの骨節が互いに支えて、その形を五輪の塔のようにすると説かれています。

いつもよく、椎名由紀先生が、だるま落としを持ってきて説明してくださいました。

きちんと積み重ねると安定するのであります。

それから五重塔では、心柱が固定されていないというのも大事なところであります。

ぶら下がっているのです。

坐禅の時の背骨も、ただぶら下がっているというような感じで調えると余計な力みが消えます。

坐禅の時に、腰をそらして張ってしまう方が多いように感じます。

肋骨が後傾してしまうのです。

これは腰に余計な力が入ってしまいます。

「打坐三昧で過していた高僧」というのは、惠成のことです。

慧成は、はじめ学問を収めていましたが、南嶽惠思に見えてその非を知り、たちまち注釈書などを焼却して入門しました。

当時禅門に造るもの数十人いたそうですが、自分はその中でも遅れていると思って、夜から昼になるまで眼を開いて坐禅すること十五年であったというのであります。

円通禅師は、円通法秀禅師のことです。

「念起こらば即ち覚せよ、之を覚すれば即ち失す」というところは、「もしなんらかの事にふれて念が起ったならば、それを継続せず省覚を加えるがいい。

そうすればその念は立ちどころに消え失せる。」

と訳されています。

念が起きたと気づいたら、それ以上念を継がないようにするのです。

そうすれば自然と消えてしまいます。

「坐禅というものは、身体が安らぎ、心の悩みが除かれて楽しくなるところの法門である。」とは「坐禅は安楽の法門なり」という言葉を訳されたものです。

「身体が安らぎ、心の悩みが除かれて楽しくなる」のです。

「ところが世間には坐禅をしてかえって病気になるものもいるが、それは心がけが正しくないからであろう。」というのは注意すべきであります。

股関節をよく動くようにして脚を組まないと膝を痛めることになります。

また単なる我慢だけになっても考えものであります。

よく工夫して用心してやれば坐禅ほど楽しいものはないものです。

よその道場で修行してきた者も、今までは坐禅はただ我慢するだけだったと言っていました。

円覚寺にきて坐禅がほんとに楽しくなったと言ってくれていました。

有り難いことであります。

もっとも私自身、本当に楽しいと感じるようになれたのは、坐禅を始めて十年も二十年もしてからでありました。

十年坐れば分かるという世界なのです。

しかしながら、十年をかけなくても上手に導いて体を調えることをしっかり学んでいけば、まず坐禅の良さを感じてもらうことは可能であります。

そうして楽しいと感じるようになれば、自ずと進む方向を工夫してゆくようになるものです。

先の摂心の間は専ら上体の力を抜いて下腹を充実させて呼吸することに重点を置いて毎日皆と坐禅をしていました。

皆が喜んでくれているのが感じられるとこちらも楽しくなるものであります。

 
横田南嶺

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