礼拝の一日
その日は、朝から礼拝の一日となりました。
まず私はいつも三時には起床して、チベット式の五体投地を百八回自分で行っています。
この習慣も三年ほどになります。
とても心地よいものです。
それからその日は修行道場の布薩の日となっていましたので、修行僧達と百回の礼拝を繰り返しました。
この礼拝は、五体投地でも中国や日本で行われているものです。
両膝をついて、膝は曲げたまま、両手と額を床につけます。
そして両手の平を上に向けて、その手の平に仏様のおみ足をいただく思いでもちあげます。
そしてまた両手を伏せて体をおこして立ち上がるというものです。
布薩は毎月二回行うようにしてもう長くなります。
百の礼拝を繰り返しながら、懺悔し、戒の条文を読み上げて、戒にそむく行いがなかったか反省し、これから戒にもとる行いがないように誓うのであります。
それから午前中に日曜説教があって、午後からは一般の方々の布薩でありました。
これもとても好評であります。
今回は七十名の方と一緒に、二十七回の礼拝を繰り返しながら十善戒を読んでいました。
早暁のひとりで行うチベット式五体投地と、僧堂の布薩と、一般の方々との布薩とで、礼拝の一日となりました。
長く行ってきていますので、体にはまったく負担を感じません。
慣れない頃は、百回も礼拝をして立ったり座ったり繰り返すと、疲れたりしたものです。
やはり毎日の実践は大事だと思います。
その日は天気予報では雨でありました。
花を催す雨は落花の雨という言葉がありますが、一雨ごとに雨に催されて花が咲き、そしてまたその同じ雨が花を散らす雨になります。
境内の桜はほぼ散ってしまっていますがまだ山々に咲く山桜がきれいであります。
新緑の淡い緑と山の桜の色と一年でももっとも美しい山の景色かと思います。
雨に濡れる境内もまたあじわいがあるものです。
しかしながら、お出かけになる方にとってはたいへんでもあります。
幸いにもその日は、雨でもそれほど強い雨にはなりませんでした。
なかには偶然日曜説教にゆく折りにも帰る折にも傘を開くことはなかったという方もいらっしゃいました。
雨のためなかのか、はたまたその日は大阪の万博の開幕の日であったためか、いつもよりは少なめでありましたが、方丈に一杯の皆様で有り難く感謝します。
法話のあとの坐禅にも多くの方が残って参加してくれていました。
私はその日は空の世界と題して、最近金時山にはだしで登った話からはじめて、得るもの失うものの話をして、そして最後に言葉によって得たものと失ったものの話をしました。
言葉によって自我が強くなりました。
外の世界を差別して表現するようになりました。
この言葉以前の世界、差別のない世界を空と表現します。
最後には辻光文先生の言葉を紹介して空の世界を語ってみました。
辻光文先生の言葉です。
「いのちはつながりだ」と平易に言った人がいます。
それはすべてのもののきれめのない、つなぎめのない 東洋の「空」の世界でした。
障害者も、健常者も、子どもも、老人も、病む人も、あなたも、わたしも、区別はできても、切り離しては存在し得ないいのち、いのちそのものです。
それは虫も動物も山も川も海も雨も風も空も太陽も、宇宙の塵の果てまでつながるいのちなのです。
劫初よりこの方、重々無尽に織りなす命の流れとして、その中に、今、私がいるのです。
すべては生きている。というより、生かされて、今ここにいるいのちです。そのわたしからの出発です。
すべてはみな、生かされている、そのいのちの自覚の中に、宇宙続きの、唯一、人間の感動があり、愛が感じられるのです。
本当はみんな愛の中にあるのです。
生きているだけではいけませんか。
(神渡良平『苦しみとの向き合い方』PHP研究所)
という言葉です。
午後からは一般の方のための布薩であります。
礼拝を繰り返しますので、はじめに準備運動をしました。
今回気をつけたのが、せっかく礼拝をしても体を曲げたとき、床に手と額をつけたときに、背中が丸まってしまうことが多いので、そうならないように注意しました。
礼拝したときに背中が丸まってしまうと、せっかく礼拝を繰り返しても体が縮こまってしまうようになります。
頭を下げるときにも、「頭を下げる」と意識すると背中が丸くなるので、股関節を引き込んで股関節から折り曲げるように意識してもらいました。
立って股関節、鼠径部に手をあてて、そこから折り曲げるようにしますと、背中が丸まらずにできます。
膝をついて、更に両手と額を床につけるときにも股関節から折り曲げるように意識してもらいます。
額をつけるのに、膝よりも少し遠いところにつけるようになります。
背中が水平になった時に、あまり丸くならないようにするのです。
そうして両手をバンザイするようにして体を大きく伸ばして息を吸いこみ、体を屈めるときには股関節を引き込むようにして息を吐くということを何度か繰り返して呼吸の要領を得てもらいました。
あとは肩や首、そして腰回りを動かしました。
腰回りを動かすことによって股関節のまわりもほぐしてゆくことができます。
そして坐って足首、足の指を回してゆきました。
足と股関節も連動しています。
そうしてゆっくりと呼吸に合わせて丁寧に礼拝を繰り返しました。
私自身みなさんとゆっくりと礼拝をして、とてもすっきりした気持ちになりました。
やはり礼拝は足腰をつかいますので、自ずと重心が下におり、呼吸も深くなります。
毎回参加される方からは
「最初の、大きくバンザイしながら伸びをすることから、股関節を引き込んで礼拝することを繰り返す動きが、簡単だけども効果抜群だと思いました。
礼拝を繰り返すと、どうしても最後に身体が縮こまりがちになりますが、今日は外に向かう全身の伸びと、内に引き込む力がうまくバランスして、いつもより気持ちよく最後まで礼拝が繰り返せました」
という感想をいただきました。
こちらが注意していたことがよく伝わっていて嬉しくなりました。
ホトカミの吉田亮さんも今回の布薩に参加してくれていました。
いつものように早速感想をnoteに投稿してくれていました。
「身体全体で呼吸を合わせて礼拝し、仏さまへの誓いや懺悔し、終わった後はとても心地よく、ととのった気持ちになりました。
ただ頭の中だけでグルグル反省するのではなく、全身を使って礼拝することで運動にもなるので、気分も変わっていきました。」という言葉は有り難いものです。
まさに布薩で目指していることをしっかり体で感じてくれています。
それから布薩は礼拝を皆さんと繰り返し、みんなで唱えますので、みんな声が共鳴して素晴らしい空間が出来るのです。
まさにその空間は差別のない空の世界であります。
そのなかでただ礼拝を繰り返すのは至福のひとときとなります。
有り難い礼拝の一日でありました。
横田南嶺