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臨済宗大本山 円覚寺

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2025.02.24
今日の言葉

イス坐禅の本を作る

イス坐禅についての本を作ろうということで、いろいろ制作に励んでいます。

本を読んで誰でも出来るようにと、本から動画も見られるように工夫しています。

この頃よくあるようにQRコードをつけて、そこから動画をスマートフォンなどで見られるようにするのです。

動画の撮影をしたり、インタビューを受けたりと、一般の方にも読みやすいようにと工夫しているところです。

イス坐禅を考える原点となるものは、南嶽禅師と馬祖禅師との問答にあります。

『馬祖の語録』に南嶽禅師が馬祖禅師にこのように言っています。

これは甎をいくら磨いても鏡にならないように、いくら坐禅をしても仏になれないという南嶽禅師が、馬祖禅師にその意味を説明した言葉です。

「そなたはいったい坐禅を学ぶのかな、それとも坐仏を学ぶのかな。

もし坐禅を学ぶのであれば、禅というのは坐ることではない。

もし坐仏を学ぶのであれば、仏というのは定まった姿をもってはいない。

定着することのない法について、取捨選択をしてはならない。

そなたがもし坐仏すれば、それは仏を殺すことに他ならない。

もし坐るということにとらわれたら、その理法に到達したことにはならないのだ」

という言葉です。

これは、坐るという形にとらわれてはいけないことをはっきりと説いています。

手を組み足を組んで坐るという定着したものではないと示しています。

むしろ「坐仏」という坐った形にとらわれたなら仏を殺すとまで言っているのです。

『臨済録』にも

「世間にはわけのわからぬ坊主の連中がいて、たらふく食ってから、さて坐禅にとりかかり、雑念を押さえこんで起こらぬようにし、喧騒を嫌い静けさを求めるが、こんなのは外道のやり方だ。

祖師は言われた、

『お前がもし心を住めて寂静を求めたり、心を振い起こして外面を照らしたり、心を収束して内面に澄ませたり、心を凝らして禅定に入ったりするならば、そういうやりくちはすべて無用な作為だ』と。

ほかならぬ君たち―今そのように聴法している者たち、その者をどのように修習し証悟し荘厳するつもりなのか。

その者は修習できるものではなく、荘厳できるものでもない。

だが、まさにその者に荘厳させたならば、万物はすべて見事に荘厳されるであろう。君たち、ここを取り違えてはならぬ。」

と説かれています。

かつて小川隆先生がイス坐禅を体験されたときに、おっしゃった言葉も大事なところを説いてくれています。

夏目漱石の『夢十夜』に、木を彫って仏像の形にするのでなく、木の中にもともと埋まっている仏の形を掘り出すのだという話があります。

その話から小川先生は、

「坐禅というものを、歪んだ体を矯めて正しい型のなかに力ずくで押し込む行のようにイメージしていたのですが、先日の講習の際は、ご指示に従って体をほぐし呼吸を整えていくうちに、もともと体の中に埋もれていた坐禅の形が自然に表に出てきたような感じがいたしました」とおっしゃってくれています。

まさに今までの坐禅というと、むりやり足を組ませてその痛みを我慢させて力ずくで坐禅という形にはめ込むというものでありました。

これでは、南嶽禅師のおっしゃる「仏を殺す」ことになると思うのであります。

イス坐禅でいろいろ体をほぐす体操をするのは、体の本来の素晴らしさを発揮するためのものにほかなりません。

長年伝統の坐禅をしている方から、イス坐禅の前に体操をやっていて、いったいどこからが坐禅なのかと質問されました。

こういう方は、やはり伝統の形を守ってじっとしているのが坐禅だと思い込んでいらっしゃるのであります。

馬祖禅師の教えは、己の心が仏でありますから、あらゆる一切の営みは皆仏の働きだということであります。

呼吸に合わせて体を動かしている営みもすべて坐禅にほかなりません。

いやイス坐禅の会に行こうとして歩いている途中もまた坐禅であります。

もっと言えば朝起きて顔を洗うところからもう坐禅です。

更にもっと言えば、布団に入って寝ている時も坐禅なのです。

とりわけイスの坐禅で強調したい特徴は日常の中の修行であることです。

日常と非日常とがあります。

このどちらも大事であります。

たとえばお茶などは、今のお茶会に参加するのは非日常の体験です。

着物を着てお茶室に入るのは非日常です。

今日常で着物を着て暮らしている人は稀です。

畳の暮らしをしている人も稀です。

炭をおこして釜で湯を沸かす人も稀です。

そんな人が着物を着て茶室に入って、畳に正座して炭で沸かすお茶をいただくという非日常を味わうのです。

これもいいことです。

しかし、かつてはこの非日常も日常の暮らしでありました。

着物を着て畳に座り、炭で湯を沸かして暮らしていたのでした。

日常の茶というのもあるはずです。

日常であれば、今はたとえポットで湯を沸かしても日常の暮らしてもお茶を味わうことができるはずです。

日常の茶と、それから時に着物を着て茶室に入る非日常の茶と両方があってよいと思っています。

坐禅も同じであります。

私などにとっては、線香を立てて畳の上で結跏趺坐して坐るのは全く日常です。

ただ一般の方にとっては週末などを利用してお寺に行って、お線香の香りに触れながら慣れない足の組み方をして坐るというのは非日常の体験です。

これで気持ちが新たに切り替わるものです。

活力を養うこともできます。

ただ非日常の坐禅だけでなく、日常の坐禅もある思うのです。

日常のイスの暮らしでも出来る坐禅です。

普段は日常のイス坐禅をしておいて、そして折りに触れてお寺に行って非日常の坐禅を体験するというのはよいことだと思うのであります。

小川隆先生が、イス坐禅を習って、日常の暮らしの中で、

「特に机に向かっている時に、左右の足の裏と尾骨の三角形で上体を支えているような安定感を覚え、頭が軽くなったような感じがしている」と語ってくれたのはまさに日常の机に向かうのが坐禅になっているのです。

それから更にイス坐禅の功用は移動の時にあります。

イス坐禅を体験された方のほとんどが、新幹線や飛行機の移動が楽になったと言われます。

私自身もそれは実感しているのです。

京都に新幹線で日帰りしても、イス坐禅の要領で坐っていますと、全く腰に負担がなく、疲れが残らないのです。

移動中も坐禅になっているのです。

こうしているとほんとうに日常のあらゆる営みが坐禅になって、馬祖禅師の教えにますますかなうのであります。

 
横田南嶺

イス坐禅の本を作る

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