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臨済宗大本山 円覚寺

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2025.01.12
今日の言葉

日日是れ好日

先だって日曜日に鎌倉FMのごきげんラジオに出演した折に、「日日是れ好日」という禅語を紹介しました。

これはよく知られた禅語であります。

『広辞苑』にも、

「にちにちこれこうじつ」として、

「[碧巌録]毎日毎日が平和なよい日であること。」

と解説されています。

「にちにちこれこうじつ」と読まれていますが、円覚寺では先代の管長が「にちにちこれこうにち」と読んでおられましたので、「こうにち」と読み慣わしています。

雲門禅師という方の言葉であります。

雲門禅師は「文偃」といいます。

雲門宗の祖と言われています。

西暦八六四年の生まれで九四九年にお亡くなりになっています。

幼少の頃より出家することを望んでいて、一七歳で出家します。

二〇歳の時具足戒を受け、四分律等を学ばれました。

その後、黄檗希運禅師の法嗣の睦州禅師について参禅しました。

さらに雪峰義存禅師に参じてその法を嗣がれています。

九二三年に雲門山に禅寺を建立し、常時千人の大衆が集まっていたというのであります。

『碧巌録』には次の問答が書かれています。

そんな雲門禅師が或る日、修行僧達に問いました。

「十五日以前の事はしばらくおくとして、十五日以後、どのような心境で送るのか、一句を持ってこい」という問いです。

その日がちょうど十五日だったのかもしれません。

要するに、もう過ぎた日のことは問うまい、これからの一日一日をどう過ごすつもりであるかを問うたのでしょう。

残念ながら修行僧達に答えられる者はいませんでした。

そこで雲門禅師は自ら「日日是れ好日」と答えられたのです。

この一言は、今日でも茶席などでもよく用いられています。

どの日もどの日も、よい日であるといっても、決して自分にとって都合の良い日ばかりではありません。

江戸時代に「年中三月常月夜 女房二十(はたち)で年とらず 死なぬ子三人みな孝行 使えど減らぬ金十両 死んでも命のあるように」という歌があります。

三月というのは今の四月頃で、暑くもなく寒くもなく花の咲くよき気候です。

しかもいつも月夜。

いいことづくめであるように願いはすれども、そうはうまくゆかないのがお互いの人生です。

かつて京都の花園大学に行く折に、市内のお寺の掲示板に「子どもの頃 すべてが新鮮で まぶしかった 大人になると 色あせてしまう 今日という日は人生で初めての日だというのに」という言葉をみつけてハッとしました。

『わたしの出会った大切なひと言』(クレスト社)にこんな言葉があります。

「私が無駄に過ごした今日は、

昨日死んだ人が痛切に生きたいと思った一日である」

という言葉です。

森信三先生は「人生二度無し」とよく仰せになっています。

「これの世の再び無しといふことを 命に透り知る人すくな」と詠われています。

今日という一日もまた再び無いものだと、誰もが理論としては分かっているでしょうが、身にしみて感じている人は稀だということです。

その「日日是れ好日」という雲門禅師の言葉に、『碧巌録』には圜悟禅師が「誰が家にか明月清風無からん」という一語を著けられています。

「どの家にも明月清風があるものだ」という意味です。

また更に「海神貴きを知って価を知らず」という語も添えられています。

「海の神さまは珊瑚の貴重なことを知っていてもその真の価まではご存じない」という意味です。

どんな家にあろうとも、たとえどんな境遇にあっていても、明月は眺められるし、清風を全身で感じることはできるということです。

そんなすばらしい世界の中にありながら、その本当の貴さに気がついている人は稀であるというのであります。

お互い、ほんの少しばかり自分の思うに任せぬことがあれば、それだけで全てが嫌になったりしてしまいます。

落ち込んだりもします。

しかしそんな時でも、夜空には明月が輝き、外には清風が吹き渡っているものです。

坂村真民先生に「時」という詩があります。

 時
日の昇るにも
手を合わさず
月の沈むにも
心ひかれず
あくせくとして
一世を終えし人の
いかに多きことぞ
道のべに花咲けど見ず
梢に鳥鳴けど聞かず
せかせかとして
過ぎゆく人の
いかに多きことぞ
二度とないこの人生を
いかに生き
いかに死するか
耳かたむけることもなく
うかうかとして
老いたる人の
いかに多きことぞ
川の流れにも
風の音にも
告げ給う声のあることを
知ろうともせず
金に名誉に地位に
狂奔し終わる人の
いかに多きことぞ
生死事大無常迅速
時人を待たず
噫(ああ)

毎日毎日がかけがえのない日であることを、日の昇るのに手を合わせ、月の沈むのに心ひかれ、道のべに花咲けば見つめ、梢に鳥鳴けば聞き入って感じたいものであります。

坐禅をすると、ただ呼吸を見つめています。

呼吸といっても、見つめることのできるのは、今の呼吸だけです。

過去の呼吸はもう体験できませんし、未来の呼吸もまだであります。

これも一呼吸一呼吸、今している呼吸は一生に一度きりの呼吸なのです。

これまた坂村真民先生に「今」という詩があります。

大切なのは 
かつてでもなく  
これからでもない
一呼吸 
一呼吸の 
今である

大事なことは、「昔はよかった」などと比べないことです。

明日の予定を考えることは必要でしょうが、あまり明日のことを思い煩わないことです。

一日一日と老いてゆくのが事実でありますが、しかし、今日という日は人生で初めての日です。

ただありのままに二度と来ない今日一日だと受け止めて精一杯生きる、そんな日日が「日日是れ好日」と受け止めることができるのです。

 
横田南嶺

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