心、墻壁のごとく
「第四夜示衆に曰く、數息觀に六妙門あり。
所謂數、隨、止、觀、還、浄なり。
息を數えて三昧に入る。
是を敷と謂う。
息を數えて漸く熟すれば唯 出入の息に任せて三昧に入る。是を随と謂う。
十六特勝等、要を以て之を云えば数随の二字に帰す。
故に初祖大師曰く、
外、諸線を息め、内心喘ぐこと無く、
心牆壁の如くにして以て道に入るべしと。
内心喘ぐこと無しとは根本に依らざるなり。
心牆壁の如くとは直向前進する也。
此の偈甚深なり。
汝等請う。試に本參の話頭を取て牆壁の如く直に進み去れ。
たとえ土を以て大地を撃ちて失する事あるとも、見性は決定して徹せざる事なけん。努力せよ。努力せよ。」
という文章であります。
六妙門というのは、天台大師の説かれたものです。
ここにある通り、「数、随、止、観、還、浄」の六つであります。
「数」は、息を数えることです。
今でもわれわれの修行道場でも行っている数息観です。
「数息観」について、岩波書店の『仏教辞典』には、
「出入の息を数える観法。
出入の息を数えることによって、心の散乱を収め、心を静め統一する方法で、五停心観の一つ。
音写では<阿那波那(あなはな)>または<安般(あんばん)>という。
ヨーガの行法としてインドで古くから行われていたのが仏教にも取り入れられたもの。」と説かれています。
ちなみに「五停心観」とは、
一、不浄観、肉体や外界の不浄なありさまを観じ、貪りの心を止めることです。
二、慈悲観、一切衆生を観じて慈悲の心を生じ、怒りの心を止めることです。
三、因縁観、諸事象が因縁によって生ずるという道理を観じ、無知の心を止めることです。
四、界分別観、五蘊・十八界などを観じ、物に実体があるという見解を止めることです。
五、数息観、呼吸を数えて、乱れた心を止めることです。
以上の五つの観法をいいます。
次の「随」は、数を数えるのをやめて、ただありのままの呼吸を見つめることです。
「止」は、心を一点に集中することです。鼻の先や、へその下などの一点に心を集中するのです。
「観」は、心の目を内面に向けて、心の動きを観察します。
「還」は、心の内面を観察する意識はどこから来たのかを見つめます。
「浄」は、一切の方法を手放し、一切諸法の本質は清浄であることを見極めることです。
白隠禅師は「十六特勝等、要を以て之を云えば数随の二字に帰す。」と説かれています。
十六特勝とは、呼吸を数えて心の散乱を除く精神統一法である数息観を、多種類に細分拡充したもので、十六種類の特に勝れた修行法を言います。
すべてをあげることは省略しますが、たとえば、「念息短」といって、短い呼吸に心を集中すること。
「念息長」とは、呼吸も長くなるのを観察することです。
「念息遍身」は、気息が身体に遍満するのを観察することです。
「除身行」は、心が安静になって粗雑な息が滅することです。
このように細かく十六にも分けて観察するのですが、要点をいえば、数息と随息の二つに帰するというのです。
そのあと、
「故に初祖大師曰く、
外、諸線を息め、内心喘ぐこと無く、
心牆壁の如くにして以て道に入るべしと。
内心喘ぐこと無しとは根本に依らざるなり。
心牆壁の如くとは直向前進する也。
此の偈甚深なり。」
という達磨大師の偈が紹介されています。
この偈については以前にも考察したことがあります。
外、諸縁を息むというのは、五欲を離れることではないかと察します。
内心喘ぐこと無しは、五蓋を除くことだと受け止めてみます。
五欲とは、岩波書店の『仏教辞典』によれば、
「五つの欲望。五根(五つの感覚器官、眼・耳・鼻・舌・身)が、その対象となる<五境>(色・声・香・味・触)に執着して起こす五種の欲望で、色欲・声欲・香欲・味欲・触欲をいう」のです。
喘ぐというのが分りにくいところです。
喘ぐというと『漢和辞典』には、
「はあはあと短い息づかいをする」ことであり、「短い息づかい」です。
「喘息」という熟語もあります。
山本玄峰老師はその著『無門関提唱』の中で、
「魚を取ってきて鉢や桶に入れて飼っておくと、水が温もってきたりすれば、口をあけて、上へ出てきて空気を吸う。
そうしよるうちには、水を替えてやっても死んでしまうようになる。これを喘ぐという。」
と解説されています。
五蓋とは、
「五種類の心をおおう煩悩のことで、<蓋>は、おおうもの、障害の意。
一、貪欲(欲貪とも)、
二、瞋恚(怒り)、
三、惛眠(こんめん)(身心が重苦しい状態の惛沈(こんじん)と心の眠気や萎縮をさす睡眠(すいめん)、
四、掉悔(じょうけ)(心のざわつきの掉挙(じょうこ)と心を悩ます後悔、
五、疑(疑いやためらい)、の五種の障害をいう。」
の五つであります。
外からの刺激を離れても内心から湧いてくる煩悩があるものです。
欲望や怒りもそうなのです。
惛沈睡眠といって、心が沈んで眠気が襲ってきて怠惰になってしまうことがあります。
逆に心がそわそわして落ち着かなくなってしまったり、過去のことを悔やんだりしてしまいます。
それに師匠や、仏さま、或いは自分自身への疑いが湧いてきたりします。
こういう五蓋にさいなまされることが「喘ぐ」ことではないかとみています。
そこで白隠禅師は「内心喘ぐこと無しとは根本に依らざるなり。」と示されています。
ここを山本玄峰老師は『無門関提唱』の中で、
「これは『根本に依らざるなり』で心が喘ぐからとりとめがない。
何じゃらじゃらあっち行って聞いてみたり、こっち行って聞いてみたり、自分と自分に頭抱えてみたりして心にとりとめがない。根本、自己の本心がどこに飛んでおるやら、自分がわからない」
と提唱されています。
更に「心牆壁の如くとは直向前進する也。
此の偈甚深なり。
汝等請う。試に本參の話頭を取て牆壁の如く直に進み去れ。
たとえ土を以て大地を撃ちて失する事あるとも、見性は決定して徹せざる事なけん。努力せよ。努力せよ。」
と白隠禅師は力強く示してくださっています。
実に真っ向から突き進むばかりであります。
横田南嶺