本日より臘八
本日より修行道場では、臘八の摂心に入ります。
岩波書店の『仏教辞典』には、
「臘八<ろうはつ>とも。
宋の呉自牧『夢粱録』7に「十二月八日、寺院これを臘八と謂う」とあり、釈尊の成道の日をいう。
また、<臘八接心>の略。
禅院では釈尊の成道に因んで、自らの修行を策励し、かつまた仏恩に報いるため、12月1日から12月8日の朝まで、横に臥して眠ることなくひたすら坐禅を行ずるならわしである。」
と書かれています。
もっとも盤珪禅師は、語録の中で、
「師、臘月朔日衆に示して曰、身どもが所は、 常平生が定座で居まする所で、 諸方のごとく今日より定座といふて、各別にあがきつとむる事はござらぬ。」
と説かれています。
しかも、眠る僧がいて、それを叩く僧がいると、眠った僧ではなくて、叩いた方の僧を叱ったのでした。
眠れば仏心で眠り、覚めたら仏心で覚めるだけのことで、仏心が別のものになるということはないというのです。
いつの頃からは分かりませんが、『仏教辞典』にある通り、十二月一日から八日の未明まで坐禅の修行をいたします。
洪川老師の説かれた『亀鑑』に、
「孜々兀々朝参暮請、歳月の久しきを厭わず 親切懈らずんば、多時異日、一大廈屋を成立して輪奐の美を極むるや必せり」
とありますように、ひたすら修行に励みます。
そんな様子を「孜々兀々」と言います。
「朝参暮請」は、朝に晩に師に参じて教えを請うことです。
「孜孜」の「孜」はつとめるという意味です。
「孜孜」で「こまめにつとめるさま」をいいます。
問題は「兀」であります。
『漢辞海』第四版には、
音でコツ、またはゴツ。
意味は、
高くて上が平らなさま。
はげているさま。
山に草木がないさま。
羽毛がないさま。
思慮や知覚を忘れ去ってぼうっとしたさま。
無為自然の境地と無知蒙昧との両方に用いる」
と書かれています。
例文として、
「兀同体於自然(ごつとしてたいをしぜんに同じくす)という言葉があります。
茫然とすべてを忘れて自然と一体になるという意味です。
また(刑を受けて〕足を切断されたさまという意味もあるのです。
「兀者」とは「足を切断された人」を言います。
もともとは高くて上側が平らなことをいうようです。
用例には
「兀兀」があります。
これは
①高くそびえるさま。
②ぼうっとしたさま。
③ひたす努力するさま。
④静止しているさま。
という四つの意味が書かれています。
孜孜兀兀は、ひたすら努力するさまであります。
また『漢辞海』に「兀然」とは、
「ぼうっとしたさま」という意味が書かれています。
『禅学大辞典』をみますと、
「兀兀」は
「一心に努力するさま。
勤苦するさま」。です。
「兀坐」とは「正しく端坐するさま。
坐禅の真実のすがた。」と解説されています。
また「兀地」という言葉もあります。
これは
「山のごとく不動なさま。
一心不乱につとめるさま。」
という意味であります。
「被礙兀地」という言葉もあります。
これは道元禅師の『普勧坐禅儀』にあります。
「被礙はまとって離れない意。
常に坐禅して、しばしも離れず、動かないこと。
坐禅三昧となること。」を言います。
『普勧坐禅儀』には、「唯打坐に務めて兀地に礙えらる、万別干差というと雖も、祗管に参禅弁道すべし」と説かれています。
まさしく臘八の摂心は兀兀とただ坐り抜くのであります。
朝比奈宗源老師は
「人間は誰でも仏と変わらぬ仏心を備えているのだ。
これをはっきりと信じ、言わば此処に井戸を掘れば必ず井戸が出来、水が出るという風に、信じ切らねば井戸は掘れぬ。
掘れば出ると思うから骨も折れる。
だから我々の修行もそれと同じだ。仏心があるとは有り難いことだと、こう思わねばだめだ。」
と説いてくださっています。
自分にも仏心があるのだ、やればできるのだと信じることが真心であります。
これを地盤とします。
よしやろうという志、願いを礎石とします。
そうして真実の目覚めを棟や梁とするのです。
そうすれば、立派な建物が出来るように、人格が形成されてゆきます。
朝比奈老師は、坐禅の注意点を更に説いてくれています。
「そうしといて、井戸を掘るには井戸を掘る方法がある。道具もいる。努力もいる。
坐禅も亦然りだ。やればキッと出来る。どうすればよいかということを考えねばならぬ。
それには何時も言うように坐相に気を付けることだ。
姿勢をよくし、腰を立てて、息を静かに調えて、深く吸ったり、吐いたりして、丹田にグッと力を入れる修行をせねばいかん。
腰を立てないとどんなにしても力が入らん。冗談みたいに言うが、尻の骨が曲がって、尻が前の方に向いてオナラをすると、オナラが前に出るような腰つきでは絶対いかん。グッと起こしてお尻の穴が後ろを向いているようにして、そうして下腹を前に出して、グッとーこうして坐る。」
というのです。
腰を立てて丹田に気を充たして乗り切ってゆくのであります。
この春に修行道場に入った者にとっては、一番の試練となります。
またこの摂心を乗り切っていくことで大きな自信にもなってゆきます。
横田南嶺