大いに学ぶ
禅学大辞典には、
「寺院の境内を守護する神のこと。その神は寺院によって一定している。」
と解説されています。
また岩波書店の『仏教辞典』には「土地堂」についての解説の中に出てきます。
「土地堂」は「どじどう」と読んでいます。
「<つちどう>とも読む。
禅宗寺院の境内を守護する土地神(どじじん)および護法神を祀る堂。
<鎮守堂><伽藍堂>ともいう。
土地堂において土地神のために諷誦するのを土地堂諷経あるいは土地諷経という。
古くは、仏殿の両脇に祖師堂とともに付設された。」
と解説されています。
円覚寺の佛殿の中でも、祖師堂と反対側に、土地堂がございます。
土地神というと洞山良价禅師の話を思い起こします。
『碧巌録』の九十七則の評唱にあります。
岩波書店の『現代語訳 碧巌録』にある末木文美士先生の訳文を紹介します。
「洞山和尚は、一生寺に住んでいたが、土地神が彼の痕跡を探しても見つからず、ある日厨房の前に米や小麦粉を撒いておいた。
洞山は心を動かし、「お寺の物を、このように粗末にしてよいものか」と思った。
土地神はそれで一見することができ、礼拝したのである。」
というところです。
一念も余念をまじえずに、正念工夫している洞山禅師のお姿は、土地神にも見えなかったのでした。
先日麟祥院での勉強会はそんな土地神の話でありました。
これがまた小川隆先生の素晴らしいご講義で感動したのでありました。
大慧禅師の『宗門武庫』にある話です。
「廬山李商老 土地神のたたり」という題であります。
廬山の李商老という方がいて、家を建築する為に土を動かして、土地神の祟りを蒙ってしまったのでした。
今でも新しい建物を建てようという時には地鎮祭を行います。
地鎮祭とは、『広辞苑』に
「土木・建築などで、基礎工事に着手する前、その土地の神を祀って工事の無事を祈願する祭儀」
と解説されています。
その土地の神が土地神であります。
きちんとお祀りしなかった為なのか、祟りがあったというのです。
どんな祟りかというと、それは「家じゅうの者がみな全身がむくむ病となった」というのです。
医者に診てもらっても何の効き目もありません。
とうとう決心して、祟りを禳うべく、屋敷を清め、家の者に命じ、みなに精進潔斎して香を焚いて『熾盛光呪(しじょうこうじゅ)』という呪文を唱えさせたというのです。
熾盛光呪というのは禅宗ではよく読んでいる消災咒という陀羅尼です。
そうすると、七日も満たぬうちに、夜、牛にまたがった白衣の老人が夢に現れました。
老人が現れたと思うと、見る間に地面が陥没し、老人はゆるゆると地中に沈んでいったのでした。
明くる日には、家の者は、大人も子供もみなそろって元気になっていたというのです。
誠の心の感応は、物に影が応じるように、音に響きが応じるように速やかなのです。
御仏のお力でなければこんなことはありえないという話であります。
別段どうというほどのこともないと思われる話であります。
しかし、小川先生は、この内容について実に深く読み込まれたのでした。
まず「家じゅうの者がみな全身がむくむ病」という訳文になっているのですが、これについても深く考察されているのです。
原文は「家を挙げて腫(しゅ)を病む」なのです。
家を挙げては、家中です。
問題は「腫を病む」です。
『太平広記』巻323にこんな話があるというのです。
あるお母さんが亡くなりました。
お母さんはなんの病気だったのですかと聞かれて、答えたのが、「腫を病む」でした。
遡って生前のお姿が太った様子に見えていたのが、腫を病むことだと書かれているそうです。
そこで腫を病むとは、太る様子になることで、むくむことだと分かるのだというのです。
なるほど、言葉の意味をこのように前後の文章から考察していくのだと分かりました。
しかし、まだこの話だけでは大慧禅師との関わりが全く分かりません。
李商老という方は、湛堂文準禅師(1061ー1115)に参じた老居士であります。
湛堂禅師は、真浄克文禅師のお弟子であり、大慧禅師も若き日に、この湛堂禅師について修行されていたのでした。
李商老は湛堂禅師の門下で、若き日の大慧禅師とも道交を深めていたのでした。
『禅門宝訓』にある話を紹介してくださいました。
湛堂禅師のもとで大慧禅師が修行していて、そこに李商老が居士として参禅に来ていたのです。
李商老が十日も姿を見せないと大慧禅師は、人を遣わしてお見舞いしていました。
この李商老があるときに家中の者が全身むくむ病気になってしまいました。
大慧禅師は李商老のところにいって、ご自身で薬を煎じたり、食事の用意をして看病されたのです。
それはあたかも子が親に仕えるように、弟が兄に仕えるようでありました。
そうして大慧禅師はお寺に帰ってきたのですが、元首座という方に叱られてしまいます。
これは他の資料によると、はじめ一月ほどで帰ると元首座に告げて李商老のところに行ったのでした。
それが四十日にもなったので叱ったのです。
もともと元首座という方は、大慧禅師のことを目に掛けていたのです。
それで、せっかく修行しているのにすさんでしまったと叱ったのでした。
大慧禅師は晩年、湛堂禅師のもとで、この元首座という方が常に修行の道場としての規律をとてもよく守っていたと評しておられます。
大慧禅師は元首座に叱られてもただハイハイと答えて神妙にしていました。
湛堂禅師も大慧禅師のことを「再来人」だと評されました。
再来人とは、前世で修行していて、今世においても修行している者のことをいいます。
とても人には親切で情に厚い大慧禅師の一面がよく伝わってくる話であります。
『宗門武庫』だけを読んでいては、李商労が家の修造で、土を勝手に動かしてしまい祟りにあい、それが消災呪を読んで病気がよくなったというだけの話です。
しかし、大慧禅師もそこに深く関わっていることがよく分かりました。
そして大慧禅師のひととなりも伝わってくる話なのです。
なるほどこうして深く禅籍を読み込んでゆくのだと大いに学ばせてもらいました。
横田南嶺