馬祖禅師の教え
後の臨済禅師の教えのもとになっているといえます。
馬祖禅師の言葉について、禅文化研究所発行の『馬祖の語録』から入矢義高先生の現代語訳を参照しながら学びます。
そもそもどこの生まれかというと、
「江西道一禅師は漢州什方県の人である。
姓は、馬氏、生まれ故郷の羅漢寺で出家した。
容貌は人並はずれ、牛のようにゆったり歩き、虎のように眼光が鋭かった。
舌を伸ばせば鼻にとどき、足の裏には二輪文があった。
幼時に資州の唐和尚の下で剃髪し、渝州の円律師に具足戒を受けた。」
と書かれています。
「舌を伸ばせば鼻にとどき、足の裏には二輪文があった」とは仏陀を表す形容の一つですが、「牛のようにゆったり歩き、虎のように眼光が鋭かった」とは「牛行虎視」といって馬祖禅師の特徴として知られています。
馬祖禅師は南嶽禅師のところで悟ったのでした。
「唐の開元年間、衡岳の伝法院で坐禅を修した時、譲和尚に出会った。 南岳懐譲は法器と知って問うた、
「大徳、坐禅してどうするつもりかな」。
師は答えた、「仏になるつもりです」。
すると懐譲は瓦を一枚取って、馬祖の庵の前で磨きはじめた。
師が云った、
「瓦を磨いてどうするのですか」。
懐譲が云った、「磨いて鏡にするのだ」。
師が云った、
「瓦を磨いて鏡になんぞなりますまい」。
懐譲が云った、
「瓦を磨いても鏡にならぬからには、坐禅しても仏になれるものか」。
師が云った、「どうすればよろしいでしょうか」。
懐譲が云った、「牛に車を引かせる時、車が進まないなら、車を打てばよいかな、牛を打てばよいかな」。
師は答えられなかった。
懐譲はまた云った、
「そなたはいったい坐禅を学ぶのかな、それとも坐仏を学ぶのかな。もし坐禅を学ぶのであれば、禅というのは坐ることではない。
もし坐仏を学ぶのであれば、仏というのは定まった姿をもってはいない。
定着することのない法について、取捨選択をしてはならない。
そなたがもし坐仏すれば、それは仏を殺すことに他ならない。
もし坐るということにとらわれたら、その理法に到達したことにはならないのだ」。
師は懇切な教えを聞いて、あたかも醍醐を飲んだ思いを」したのでした。
唐の開元というのは、中国の唐朝で玄宗皇帝の治世前半にあたる年号で西暦七一三年から七四一年にあたります。
馬祖禅師は、七〇九年のお生まれですので、四歳から三十二歳までの間のこととなります。
おそらく二十代か三十歳になったばかりのことだと察します。
それから
「懐譲和尚は、師が江西で布教活動をはじめたのを聞いて、弟子達にたずねた、
「道一は大衆のために説法しているのか」。
弟子が言った、「もう大衆のために説法をしています」。
懐譲が言った、「まだ誰もその様子を伝えて来たものがいない」。
そこで一人の僧を派遣し、次のように命じた。
馬祖の所に行って彼が上堂したら、ただ「どうですか」とだけ問い、彼が何か言ったらそれをおぼえて帰ってこいと。
その僧は指示の通りに、行って問うた。
師は言った、
「いいかげんにはじめて今や三十年、塩と味噌には不自由してはいない」。僧は帰って懐譲に伝えた。
懐譲はそれを認めた。」
ということでありました。
日常の営みすべてが仏道の実践に他ならないのであります。
馬祖禅師のお説法はどんなものかといえば、
「馬祖は示衆して言った
「諸君、それぞれ自らの心が仏であり、この心そのままが仏であることを信じなさい。
達磨大師は南天竺国からこの中国にやって来て、上乗一心の法を伝えて諸君を悟らせた。」
というように、心こそが仏であると説かれました。
「即心是仏」と言います。
ではその「心」とはどんなものかというと、長いお説法が残されています。
煩をいとわず引用しましょう。
「馬大師は言われた、
「君がもし心を知りたいというなら、今そのように語っているものが、君の心そのものなのだ。
その心が仏と名づけられるものであり、また実相法身仏でもあり、道とも呼ばれるものだ。
経典には『三阿僧祇劫に百千の名号があるのは、時と場所に順応して名を立てたものである』と言っている。
物によって色が変わる摩尼珠のように、青い物に触れると青くなり、黄色い物に触れると黄色くなるが、その本体はどんな色でもない。
指が自らの指に触ることができず、刀が自らを切ることができず、鏡が自らを映すことができないように〔心も自らの心を見ることができず〕、その時その場の条件に対応して〔心が〕見て取った対象にそれぞれ名が付けられるのである。
この心は虚空と同じ寿をもち、たとい六道輪廻して、いろいろな形のものに生まれ変わっても、この心ばかりは生ずることもなく、滅することもなく不変である。
しかし衆生はこの自らの心が見て取れぬため、むらむらと迷いごころを起し、いろいろな業を作ってその報いを受け、本性を見失って、俗世のしきたりに執われるのである。
四大(地・水・火・風)の肉身は生滅するが、霊覚の性は生滅することはない。
君が今この本性をこそ悟ることを、長寿というのであり、また如来寿量ともいい、本空不動性ともいうのである。」
と説かれています。
「師の入室の弟子は百三十九人である。それぞれがひとかどの宗主となり、その教えは果しなく拡がった。」
とある通り大勢の弟子が育ったのでした。
そして
「師は貞元四年正月、建昌の石門山に登り、林の中をそぞろ歩きし、洞穴が平らなのを見て侍者に言った、
「私の身は、来月ここに帰ることになろう」。言いおわって帰ると、やがて病に臥した。
院主がたずねた、「和尚、このごろお具合はいかがですか」。
師が言った、「日面仏、月面仏」。
二月一日、沐浴し結跏趺坐して入滅した。」
というご生涯でありました。
西暦でいうと、七〇九年に生まれ、七八八年に亡くなっています。
世寿八十のご長命でありました。
横田南嶺