三つの言葉
二〇二三年九月二四日の「今日の言葉」です。
また最近改めてこの三つの言葉を思い起こすことがありました。
「風呂」、「飯」、「寝る」の三つの言葉しか喋らない夫が「三語族」と呼ばれたことがありました。
もうずいぶん以前のことであります。
また三語族はその後もいろいろと使われてきました。
三語族というといつも思い出すのは、先代の管長であった足立大進老師のことであります。
先代の管長が、新しく住職に就任した若い和尚さんに言っていたことがあります。
それは「住職というのは、あまり多くを語ってはいけない。
こちらからしゃべるより、とにかく檀家の人や訪ねてくれた方の話を聞くことが大事だ。
こちらが語る言葉は三つでよい」と仰せになっていました。
三つの言葉でいいから、これを「三語族」だと仰っていました。
足立老師の説かれる三語というのは、どんな言葉なのか、学んでみましょう。
まず、お寺に檀家の方なり、地域の方なり、誰かが訪ねてきたら、とにかく、お茶でも出して、こちらは、今まで僧堂で修行してきた坐禅の要領で肩の力を抜いてゆったりと、丹田に気力を充たしてどっしりと落ち着いて坐ることだというのです。
余計な力を抜いて体を楽にして、向こうの言うことをとにかく聞きなさいというのが第一番です。
そして話しかけられたら只ひたすら、「ああそう」、「ああそう」と聞き役に徹しなさいということです。
まずひとつめの言葉は「ああ、そう」なのです。
この「ああ、そう」だけで、いくらでも話を聞けるのだと仰っていました。
そしてその話がたとえば子供が結婚したとか、孫が学校に入ったとか、うれしい話ならば、最後全部話し終わったときに、「よかったね」と言って喜んであげなさいというのです。
逆にそれがつらい話、苦しい事ならば、話し終わった後に、「困ったね」と言ってあげなさい。
それだけでよいのだというのです。
この「ああそう」と「こまったね」と「よかったね」の三つの言葉で済むと仰せになっていました。
力の無い者がべらべらしゃべるとろくな事はないと付け加えるものですから、私などもいつもお話を聞くたびに冷や汗をかいていたものです。
河合隼雄先生に長年学ばれたという方から、河合先生の言葉をうかがうことがありました。
河合先生は、カウンセリングなどで人の話を聞くとき、よく口にされるのが、「分かりませんなあ」という言葉と、「難しいですなあ」であったというのです。
このことについては、河合先生の『こころの処方箋』(新潮文庫)の巻末に谷川俊太郎さんが「三つの言葉」と題して書いてくださっています。
「自分ではどうあがいても分からない大事なことを、河合さんなら分かってるだろうと思って尋ねると、まず「難しいですなあ」という答えが返ってくる。
難しいことはこちらも先刻承知だから、どうしてももう一押ししたくなる。
すると「分かりませんなあ」ということになる。
それでがっくりくるかというと、それがそうでもないのだから妙だ。
むしろ安心すると言えばいいのだろうか。」
と谷川さんは書かれています。
この『こころの処方箋』という本は五十五の章から成り立っています。
短い文章が五十五も載っているものです。
まずその第一章が、
「人の心などわかるはずがない」という題なのです。
その冒頭には、
「臨床心理学などということを専門にしていると、他人の心がすぐわかるのではないか、とよく言われる。
私に会うとすぐに心の中のことを見すかされそうで怖い、とまで言う人もある。
確かに私は臨床心理学の専門家であるし、人の心ということを相手にして生きてきた人間である。
しかし、実のところは、一般の予想とは反対に、私は人の心などわかるはずがないと思っているのである。」
と書かれているのです。
私も全くその通りだと思っています。
人の心こそ分かるはずもないものです。
自分の心ですら分かるものではありません。
まして他人の心が分かることなど無理だと思っています。
谷川さんも「安易に答えを出すよりも、まず「分からない」と思う方が答えに近づく近道だということを、私は納得する」と書かれています。
谷川さんは更に「難しいですなあ」という言葉にも、「分かりませんなあ」と同じようなことが言えよう。
河合さんほどの学識と経験をもってしても、「難しい」としか言えないことがある、そう思うことで私たちはかえって励まされるのだ。
難しいからあきらめるのではなく、難しいからこそ難しさの密林にわけいって行く、そこに生きることの手応えがある、そんなふうに私たちは感じる。」
とも書いてくださっています。
そして「分かりませんなあ」「難しいですなあ」と、もうひとつ、「感激しました」という言葉を谷川さんは加えられています。
河合先生は、読んだ本、誰かの一言、かかえているクライアントの反応に、毎日のように「感激」していると、谷川さんは書かれています。
分からないからこそ、難しいからこそ、些細な気づきに感激するのであります。
これは仏道を学ぶということにも大いに通じるものです。
学ぶほどに分からなくなります、やればやるほど難しい事に気づかされます。
それでも学ぶうちに、感激があるものです。
『こころの処方箋』には「説教の効果はその長さと反比例する」という題の章もあります。
河合先生は「いわゆる「説教」というものは、もともとあまり効果のあがらぬものである。
上司が部下に、先輩が後輩に「そもそも・・・・・・」という調子で、注意すべき点や、よく考えるべき点について述べる。
時には、「俺の若かったときは・・・・・・」などと体験談がはいるときもある。
総じてそこに語られることは「有難い」ことや、有益なことなのだが、どうも効果の方は、もうひとつあがらないのが特徴的である、と言ってよさそうである。
特に、説教が長びくほど効果はないようである。」
とはっきり書いておられます。
説教がなぜ長くなりがちなのか、河合先生は、
「それはまず、説教で語られる話が、何といっても「よい」話には違いないので、話をしている本人が自己陶酔するので長くなるようである。
平素の自分の行為の方は棚上げしておいて、「よいこと」を話していると、いかにも自分が素晴らしい人間であるかのような錯覚も起こってくるので、なかなか止められない。」
と深く考察されています。
なかなか三つの言葉だけで済ませるのは難しいことですが、長くならないように心しなければなりません。
横田南嶺