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臨済宗大本山 円覚寺

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2024.10.05
今日の言葉

達磨大師のご命日

本日十月五日は達磨大師のご命日であります。

円覚寺では午前十時から佛殿で法要を行います。

中央の須弥壇の上に、達磨大師のお像をお祀りして行います。

普段は佛殿の左奥にお祀りしているお像を、須弥壇の上にお移しします。

そして、住持である私が、お香を献じて三拝、ご飯と白湯を献じて三拝、そしてお茶を献じて三拝します。

この法要にも導師には、五侍者がつきます。

五人の侍者がそれぞれ手渡しで、お供えをするのです。

達磨大師について、よく分からないことが多いのです。

「だるま」を『広辞苑』で調べて見ると、

梵語 菩提達摩

禅宗の始祖。
南インドのバラモンに生まれ、般若多羅に学ぶ。

中国に渡って梁の武帝との問答を経て、嵩山の少林寺に入り、9年間面壁坐禅したという。その伝には伝説的要素が多い。

その教えは弟子の慧可(えか)に伝えられた。

諡号(しごう)は円覚大師・達磨大師。

(──〜五三〇?)」

と書かれています。

まずはじめの「南インドのバラモンに生まれ、般若多羅に学ぶ」について学んでみましょう。

禅文化研究所発行の『日本にのこる達磨伝説』という本には、はじめに簡単に達磨大師のご生涯について書かれています。

「オーソドックスな達磨の伝記」として書かれていますので、そちらから引用してみます。

「南天竺(南インド)に香至王という国王がいた。

王は仏法を篤く信仰していた。

菩提達磨は王の第三王子として生まれた。

もとの名を菩提多羅といった。

当時、般若多羅尊者は、釈尊から正法を受けついで第二十七代目にあたる祖師として尊崇されていた。

ある時、般若多羅は南天竺に巡錫して多くの人を導き、香至王から非常に高価な宝珠を施された。

般若多羅は試みに、香至王の三人の王子に質問した。

「この宝珠に匹敵する宝は、他にあるでしょうか」

第一王子の月浄多羅・第二王子の功徳多羅は言う。
「この宝珠は、七種の宝の中で最高のものです。我が王家だからこそ、こうしてさしあげることができるのです」

しかし、第三王子の菩提多羅だけは次のように言う。

「これは世間的な宝にすぎません。

もろもろの宝のなかで最高のものは法の宝です。

この宝玉の光は世間的な光にすぎません。

もろもろの光のなかで最高のものは智慧の光です」

般若多羅は、菩提多羅のすぐれた智慧と弁舌に驚き、法を授けるのにふさわしい人物であると知った。

しかし、いまだその時に至ってはいなかったので、しばらく伏せておいた。

その後、香至王が亡くなった。

みなが嘆き悲しむ中、菩提多羅のみは王の枢の前で静かに禅定に入るばかりであった。

七日の後、菩提多羅は禅定より出でて、般若多羅に出家を求めた。

般若多羅は戒律を授け、告げて言った。

「釈迦如来が正法眼を弟子の大迦葉に授けて以来、代々受け継がれて私に至った。
私は今、それをお前に授けよう。今より名を菩提達磨と改めなさい」

達磨は般若多羅に問うた。

「私はすでに法を授かりました。

これから、いずこの国に赴いて教化するのがよろしいでしょうか」

般若多羅は言った。

「お前は法を得たといっても、まだ遠くへ行ってはならない。しばらく南天竺に滞在しなさい。

私の滅後六十七年を経てのち、震旦(中国)に赴いて素質のある者を見つけ出すのだ。

決して急いではならない。

さすれば、かの国では、悟りを開く者が数えきれないほど輩出することになるだろう」

達磨は師の教えを守り、時節が来るまで天竺での教化に従事した。

当時、天竺の仏教には六つの宗派があったが、それらを帰服させて天竺中に名を轟かせた。」

と書かれています。

かくしてその言葉を守り達磨大師は、般若多羅尊者がお亡くなりになった後に、中国に渡ったのでした。

はじめ梁の国に到り、武帝と問答をしました。

しかし、機縁かなわず達磨大師は、揚子江を渡って魏の国に到ります。

そのときの様子が後に芦葉に乗って川を渡る姿に画かれました。

「芦葉達磨」の絵であります。

そこで面壁九年といいますから、壁に向かって坐っていたのでしょう。

訪ねてきた慧可と問答をしました。

その慧可に法を授けたのでした。

『日本にのこる達磨伝説』には次のように書かれています。

「ここに「楞伽経』四巻がある。これもお前に授けよう。この経は如来の心への門である。

これで衆生を悟りの世界に導き入れなさい」

「私がこの国に来て以来、迫害をうけて五度も毒を盛られた。 私は吐き出した毒を試みに石の上に置いたところ、石が割れてしまうほどであった。

私が南天竺を離れ、この国に来ようとした時、赤県神州(中国)に大乗仏教にふさわしい気質があるのを見て、ついに海を渡り陸を越え、法のために人材を求めた。

お前を得るまでの私は、愚か者や訥弁の者のように黙すばかりであった。

しかし今、お前を得て正法を伝授した。

これで思い残すことは何もない」

そう告げた後、達磨は弟子たちと禹門(山西省)の千聖寺へと赴き、三日の間逗留した。」

と書かれています。

更に「当時、北魏王朝は仏教を崇敬し、あまたのすぐれた僧侶がいた。

中でも光統律師と流支三蔵の二人は、特に傑出した人物であった。

達磨が道を説き、形式に重きを置く教えを排斥して、直ちに人の心を指さすのを見て、いつも達磨に論議をもちかけた。

そして、達磨の教えの是非をめぐって大変な騒ぎとなるのであった。

達磨は厭うことなく、彼らに法を説いたが、心の狭い者たちは達磨を殺害せんと計り、しばしば毒薬を盛った。

六度目に毒を盛られた時、なすべきことをなし終えていた達磨は甘んじて毒薬を受け、端然と坐したまま遷化した。

その年のうちに熊耳山(河南省)に葬り、定林寺に塔を建てた。」

というのであります。

それが十月五日であったと伝えられています。

世寿百五十であったといいますが、定かではありません。

ともあれ、達磨大師を禅宗の初祖と仰ぐようになって今日に到ります。

達磨大師の遺徳を偲び法要を行うのです。

 
横田南嶺

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