生まれついたのは仏心のみ
盤珪禅師については何度も語っていますが、先日は久しぶりとなりました。
改めて盤珪禅師の偉大さを思ったものでした。
私が盤珪禅師を尊敬申し上げるところのひとつには、日常の言葉で禅の教えを説かれたことです。
臨済禅の教えは、鎌倉時代に中国から入ってまいりました。
鎌倉時代は日本のお坊さんが中国に渡って、中国で修行して日本に禅の教えを伝えました。
最初が建仁寺のご開祖である栄西禅師です。
それから京都・東福寺をお建てになった聖一国師などという方も、日本から中国・南宋の国へ行って修行し、当地の臨済禅を伝えられました。
それから中国のお坊さんが日本へやってきて、禅の教えを伝えてくださるという場合もあります。
建長寺のご開山、蘭渓道隆禅師、円覚寺の無学祖元禅師という方は、中国の方です。
こうした方々が日本で臨済禅をお伝えくださったわけです。
当時用いていたのは漢文です。
日本から中国へ渡った方々は、相当に中国の言葉を学んで、漢文で禅問答をなさっておられました。
それから中国のお坊さんが日本へ見えれば、当然中国の言葉で説法されます。
日本の修行僧は中国の言葉を学んで、漢文で問答するというのが最初の頃でございました。
そういうわけで、漢文の語録というのが禅の一番大切なものとされてきました。
日本の聖一国師にしても、夢窓国師という方も、或いは大燈国師という方も、仮名法語というものを残されていますが、やはり中心は漢文の語録で、仮名法語は少しくだけたものとしてしか説かれていません。
そうした中でようやく、江戸時代の盤珪禅師に到って日本の言葉で説かれるようになりました。
公案というものは、主に漢文の語録を参照しますので、漢文を使います。
しかし盤珪禅師は、中国の言葉で問答するような公案は不要である、日本には日本の言葉があり、それで十分説いて示すことができる、というお考えでした。
それで当時の日常の言葉で語ってくださったのです。
そのようにみますと、私は日本の禅は盤珪禅師に到って、ようやくこの国に本当に根付いたと見ています。
その説法の一部を紹介しましょう。
盤珪禅師のところへ来ておられたお坊さんが質問をしました。
「それがしは生れ附て、平生短気にござりまして、師匠もひたものいけんを致されますけれどもなをりませず、」
というのです。
このお坊さんは生まれつき短気、すぐに腹が立って怒ってしまうようです。このお坊さんはお師匠さんからも、やたらと、お前は短気でいかん、直さねばならないぞ、とお叱りを受けていました。
しかし、私のこの短気はどうにも直らないのです。
「私も是はあしき事じゃと存まして、なをさふといたしますれど、これが生れ附でござりまして直りませぬが。是は何と致しましたらば、なをりませうぞ、禅師のお示しを受ましてこのたびなをしたふ存じまする」
と言います。
私自身もこの短気な性格は悪いことだ、と思って直そうとするのですが、私の短気は生まれつきなんです、どうしたら直るのでしょうか、と盤珪禅師にうかがうのです。
盤珪禅師は一代の高僧として当時の誉れ高かったので、そのお示しを受けてなんとか直したいのですというわけです。
「若なをりて国元に帰りましたらば師匠の前と申、又私一生の面目とぞんじません(う)程にお示しにあづかりたふ存まするといふ」
この短気が直って国元に帰ったならば、お師匠さんに対しても顔向けができるし、私自身の生涯にとってみても、世間様に対して顔向けができると思っていますので、私のこの短気を直してください、とお願いしたのです。
すると「禅師曰、そなたはおもしろいものを生れ附れたの。今も爰にたん気がござるか。あらば只今爰へおだしやれ。なをしてしんじやうわひの」と仰せになりました。
あなたは珍しいものを生まれつき持っているというのだなというのです。
生まれつきならば、ここに短気があるか、あるならば、今ここへ、その短気を出してみなさい。
出したならば、その短気を直してやろうではないか、といったのです。
それに対して「僧の曰。ただ今はござりませぬ。何とぞ致しました時には、ひょとたんきが出まする」。
短気は、今はないのですと答えます。
禅師の前にいるときには、短気は出ないのです。
何かの拍子に私の短気はひょっと出るのですと答えました。
こう答えたので
「禅師いはく、然らばたん気は生れ附ではござらぬ。何とぞしたときの縁に依て、ひょっとそなたが出かすわひの。何とぞした時も、我でかさぬに、どこにたんきが有ものぞ。そなたが身の贔負故に、むかふのものにとりあふて、我がおもわくを立たがって、そなたが出かして置て、それを生れつきといふは、なんだいを親にいひかくる大不孝の人といふもので御座るわひの」と仰せになりました。
言葉の語尾の「わいの」は方言のようなものです。
それならば短気は生まれつきではないと言いました。
生まれつきであるならば、ここへ出せと言われたら出すこともできるでしょうが、何かの拍子にひょっと出るものならば、生まれつきではないというのです。
何かの縁、縁というのは条件です。
例えば、人に何か嫌なことを言われたというようなことによって、あなた自身が短気を出しているのではないかと説かれます。
何か嫌なことを言われたり、思いもかけないようなことに出会ったりした時にも、自分でその短気を出さなければ、どこに短気があるかと盤珪禅師は説かれます。
短気はあなた自身が作り出しているのだと説かれます。
あなた自身がどのように作り出しているかといえば、「身の贔屓ゆえに」なのです。
この「身の贔屓」というのが、盤珪禅師の大事な教えの一つです。
銘々が生まれながらに尊い仏心・仏性を持っているのですが、我が身のことをことさらに依怙贔屓してしまうから、気に入らないことに短気を出してしますのです。
あなた自身が自分自身を可愛がって、それで気に入らないものに対して、自分の思い通りではないので、勝手に自分で短気を出しておいて、それを生まれつきというのは何事か、というのです。
それは無理難題を親に言いつけるような大きな不孝の人だと説かれます。
「人々皆親のうみ附てたもったは、仏心ひとつで、よのものはひとつもうみ附はしませぬわひの」。
これは素晴らしい言葉です。
一人一人、誰しも親から生みつけてもらったのは、仏心一つであるというのです。
我々が生まれた時は、尊い仏様の心一つを産み付けてもらっているのです。
それ以外の短気だとか、憎しみ、ねたみというものは、親は何一つあなたに生み付けていないのです。
「しかるに一切迷ひは我身のひいきゆへに、我出かしてそれを生れつきと思ふは、おろかな事で御座るわひの」。
一切の迷いが、自分自身をことさら可愛がることから生じるのです。
気に入らないものに対する怒り、憎しみ、ねたみというものを自分で作り出しておいて、それを生まれつきの短気だと思うのは、なんと愚かなことではないかと説かれます。
「我でかさぬに短気がどこにあらふぞいの」。
自分が短気を出さなければ、どこに短気があるのかというのです。
自分が勝手に我が身の贔屓ゆえに作り出しているので、元来どこにもありはしないのです。
こういうお説法なのです。
こんな、柔らかい、丁寧なお示しを聞いていると、短気も自然とおさまってきます。
横田南嶺