吾が心、秋月に似たり
月見をするたびに思い起こすのが、馬祖禅師の問答です。
禅文化研究所の『馬祖の語録』から現代語訳を引用します。
西堂・百丈・南泉が馬祖に随侍して月見をしていたとき、馬祖が言った、
「まさにこういうときはどうだ」。
西堂、「供養にもってこいです」。
百丈、「修行にもってこいです」。
南泉はさっと袖を払って立ち去った。
馬祖は言った、
「経は智蔵のもの、禅は懐海のものだ。
ただ普願だけは、独り物外に超然としておる」
というものです。
昔の禅僧はお月見をしながらも、問答をしていたのでした。
筑摩書房『禅の語録13 寒山詩』には
吾が心は秋の月の
碧潭に清くして皎潔たるに似たり
物として比倫するに堪うる無し
我れをして如何が説(い)わ教(し)めん
という有名な漢詩が載っています。
「私の心は秋の月がエメラルド色の深淵に照り映えて、清らかにもけざやかに輝くにさも似ている。
この心に比較することのできる何物も存在しないのだから、私に心のありさまを説明させることが誰にできようか。」
と訳されています。
同じ詩でも、『中国詩人選集5 寒山』にある入矢義高先生の訳注では、
吾が心は秋の月に似たり
碧潭 清くして皎潔
物の比倫するに堪うる無し
我れをして如何が説かしめん
と訓読されています。
私などは、筑摩書房『禅の語録13 寒山詩』にある訓読よりもこちらの入矢先生の訓読の方が親しみがあります。
入矢先生の解説をみてゆきましょう。
語注には、
「比倫」は、「くらべる。並べて比較する」という意味であります。
現代語訳では、
「わが心は秋の月が、澄みきった碧潭に皎皎と冴えているのに似ている。
この心を比べるに足るものはほかにない。いったいどう説明したらよかろうか。」
となっています。
語注の「比倫」の解説のあとに次のように書かれています。
引用しましょう。
「宋の洪邁の随筆集「容斎四筆」巻四に、次ぎのような插話が載っている
杜甫の「春日 李白を憶う」詩に「白や詩に敵なし、飄然 思いは群ならず、清新なるは庾開府、俊逸なるは鮑参軍」とあるが(黒川洋一氏「杜甫」上巻、二七ページ参照)、
ある軍人がこの詩に文句をつけて言った、
「敵なしなら、庾と鮑に似るはずもなかろう」と。
すると、ある人が説明して、「そうじゃない。庾は清新だが俊逸ではなかったし、鮑は俊逸だが清新ではなかった。
李白はその二つを兼ねたのだ。だから敵なしというわけだ」と言って、軍人をヘコました。
近ごろ出来の杜甫詩集に、無敵を無数と改めたのがあるが、たぶん物好きのやった仕事だろう。
寒山の詩にも「吾が心は秋の月に似たり」云云というのがある。
ある人がまた文句をつけて、「秋月碧潭に似るといいながら、比ぶるに堪うる物なしとは、こりゃどうしたわけじゃ」と。
思うに、この詩の意味は、もし比倫すべきこの二つがなかったら、さて如何が説くべけんというのであって、こういったところは、こういう工合に読み取らねばいけない。
以上が「容斎四筆」の文であるが、これに従えば、第三句は「……に堪うる無くんば」と読むわけである。
しかしそう読んでは、理に堕ちてかえっておもしろくない。」
というものです。
更にいろいろ調べたくなりました。
筑摩書房『世界古典文学全集36B 禅家語録Ⅱ』にある西谷啓治先生の寒山詩を調べてみました。
西谷先生は、
「吾が心 秋月に似たり
碧潭 清(せい) 皎潔
物の比倫に堪えたる無し
我をして如何か説かしめん」
と読まれています。
二句目を「碧潭、清(せい)皎潔(こうけつ)」
と読まれているのが特徴的です。
解説を参照してみます。
「 これは『寒山詩』中の絶唱として古来人口に膾炙されたものである。
秋天の明月が皎々と照り渡り、それがまた澄みきった碧潭に照り映えて、すべてが八面玲瓏、言いようもなく清らかで皎潔であるという、それにも似たのが自分の心である。
そういうメタフォルで辛うじて示唆しても、その清潔な心そのものは自分でも何とも説きようがない。
それと比べ得るようなものは何もないのだ、と寒山は言うのである。
現代の宇宙飛行士は、月に向う途上で、地球が碧く美しく弧を画いているのを見たと言われる。
それと似たような距離を置いて、天辺の明月のように一点の瑕翳もなくなった寒山の心には、物の世界、この場合は つまり宇宙そのものが、いわば(ここでこういう言葉を使うのは面白くないが、強いて言えば)法身の法水を湛えた碧潭として映った、とも言えよう。もちろん、物の世界と心と全く別々に二つあるというわけではない。
秋月のような心に応えて物の世界が碧潭のような相を現わしたということである。
八面玲瓏である。」
とあります。
またお月見というと坂村真民先生の詩を思います。
月光洗浄
三人の子どもが外から走って帰って
父ちゃん 父ちゃん
美しいお月さんが今出ていられるよ
とてもとても大きな大きな
お月さんだよと言う
わたしは仕事をやめて東の窓を開ける
ほんとうに久しぶりのいい月だ
ああこれをば四智円明の月と
いうのであろうか
お月様を愛でる心を失いたくないものです。
横田南嶺