鶴岡八幡宮へ
毎年お招きいただきますが、なかなか私も行事多く、欠席することが多いのですが、今年はお参りすることができました。
コロナ禍のあとでは初めてであります。
若宮大路を通って、正面から八幡宮に入りました。
普段は通り過ぎるばかりですが、こうして正式に参拝できたことは貴重なご縁です。
受付を済ませて、しばし休息所で待ってから、本殿に登りました。
八幡宮の大階段を上りました。
この階段には今も手すりがありません。
やはりこれは神様のお参りするという神事を表しているのかと思ったりしていました。
大階段の脇にはかつて大銀杏の大木がありました。
一二一九年(建保7年)一月三代将軍源実朝が、甥の公暁に暗殺されたところです。
公暁はこの大銀杏に隠れていたと言われています
大銀杏は、東日本大震災の前の年の三月に突然倒れてしまいました。
今はそのひこばえがずいぶんと大きく育っています。
これから何百年も経つとまたかつてのような大木になるのでしょう。
いろいろのことを思いつつ階段を上ったのでした。
八幡宮の例大祭には鎌倉の名士の方々が参列されます。
私は隅っこに坐っていましたが、何名かの方とご挨拶して時間まで待っていました。
あいにく日光のあたる席に坐ったので、かなり暑く感じました。
しかしながら、この残暑の中神事をお務めになる宮司さまはじめ神官の皆様のことを思えば、暑いなどと思ってはいられません。
モニターで儀式の様子が分かるようになっていて、親切であります。
定刻になると、宮司さまはじめ神官の方々が大階段を上る様子が映っています。
颯爽としたお姿であります。
また神事の様子もモニターで拝見することができます。
はじめに宮司さまが、神様のとびらの鍵を開けるところから始まります。
そしていろんなお供えものを捧げます。
それから祝詞を奏上するのです。
このあたりの儀式はお寺の儀式とも共通点が多いと感じます。
例大祭は八幡宮でもっとも大切なお祭りですが、円覚寺では開山忌が一番大事な行事です。
開山忌というのは、御開山さまにお茶やご飯やお香をお供えする儀式であります。
お供えをして管長が香語を唱えるのであります。
基本的にお供えして、言葉を奏上するというのは同じだと言えます。
祝詞のあと、神楽が奉納されて、そしてまず宮司さまが、神前に玉串を奉呈します。
そのあと、各界の代表の方が神前に玉串を捧げます。
総代の方々がはじめであります。
鎌倉市長も見えていました。
それから地元の国会議員の先生方、県会議員、市議会議員の先生方が玉串を捧げて拝礼します。
拝見していますとやはり国会議員の先生方は、名前を呼ばれて玉串を捧げるとそのまま退席されていました。
やはりお忙しいのだと思いました。
そのあと箱根神社や、江島神社、富岡八幡宮などの各神社の宮司さまが拝礼されていました。
そのあとで、「臨済宗円覚寺派管長」として名を呼ばれて、私が拝礼しました。
かつて鶴岡八幡宮は鶴岡八幡宮寺という名でありました。
鶴岡二十五坊というのがあって、鎌倉時代から江戸時代にかけて、鶴岡八幡宮に仕える僧侶(供僧)たちが住んでいたのでした。
僧侶の住まいである坊舎が、約二十五ほどあったそうです。
僧侶たちは、八幡宮の神事に携わり、その運営を支えていたのでした。
それが明治時代になって神仏分離令が出されて、八幡宮寺にあった大塔や鐘楼、経蔵、愛染堂などは無くなってしまったのでした。
明治になるまでは大勢の僧もいたのだと思いますものの、先日の例大祭で僧侶は私ぐらいでした。
例大祭は文治三年(一一八七)八月十五日に放生会(ほうじょうえ)と流鏑馬が始行され、これが例大祭の始まりとなっているそうです。
以来絶えることなく八百年以上の歴史と伝統が現在に伝えられているのであります。
さてそもそも「鶴岡八幡宮」とはどんな神社なのか調べてみましょう。
まずは『広辞苑』には、
「鎌倉市雪ノ下にある元国幣中社。
祭神は応神天皇・比売神(ひめがみ)・神功皇后。
1063年(康平6)源頼義が石清水八幡宮の分霊を鎌倉の由比郷鶴岡に勧請し、1180年(治承4)源頼朝が今の地に移して旧名をうけついだ。
源氏の氏神として尊崇された。」と解説されています。
ではそもそも八幡宮とは何でしょうか。
「八幡宮」は「八幡神を祭神とする神社の総称。やわたのみや。」と解説されています。
では「八幡神」とは何か、「八幡宮の祭神である神仏習合神。応神天皇を主座とし、弓矢・武道の神として古来広く信仰された。やわたのかみ」というのです。
精しく『仏教辞典』で調べましょう。
「八幡神」については、
「<八幡大菩薩><八幡大明神>ともいう。
古来から広く信仰されてきた神。
九州宇佐氏の氏神にはじまるとされる。
穀霊神・銅産の神としてあがめられ、かつ鍛冶とも関係。
八幡の示験は欽明天皇のころとされ、この伝承では応神天皇の垂迹神。
応神降誕のとき八流の幡(はた)が産屋をおおった、赤幡八流が虚空になびいたことにもとづき<八幡>というとするから、もとは<やはた>と読んだであろう。
「八六〇年(貞観二)大安寺行教(ぎょうきょう)が宇佐八幡を山城国(京都府)石清水(いわしみず)に勧請、石清水八幡宮とした。
源頼義も相模国(神奈川県)鎌倉由比郷に勧請、その子孫源頼朝は小林郷に遷座、鶴岡八幡宮と称し、源氏の氏神としたので、武家社会の守護神として尊崇された。
一方、本地垂迹説に基づいて、八幡の本地を阿弥陀仏とすることが院政時代にあらわれ、鎌倉時代には釈迦仏との見方もあらわれた。
八幡の形像は、菩薩であるところから僧形が多い(僧形八幡神)」
というのです。
「僧形八幡神」とは「僧形であらわされた八幡神のこと」です。
『広辞苑』には「八幡」は「①八幡神・八幡宮の略。
②(八幡宮に祈誓する意。本来は武士の誓言)少しもいつわりのない場合などにいう語。断じて。決して。全く。」という意味があります。
「八幡掛けて」というと「誓って」という意味となります。
「八幡太郎」は「(頼義の長子で、石清水八幡で元服したことからいう)源義家の通称。」です。
というわけでまとめてみると、八幡神というのは、元々は九州宇佐地方の神様でしたが、応神天皇の化身とされ、武神として崇められるようになったものです。
特に武士の間で信仰を集め、日本を代表する神となったのでした。
平安時代、仏教が盛んになると、神仏習合という考え方が広まって「八幡大菩薩」と呼ばれるようになりました。
そんな八幡宮のご神前に恭しく玉串を捧げ拝礼して、世の安寧を祈願してきたのでした。
横田南嶺