元気を全身に満たす
第37回になる坐禅講座です。
はじめに前回学んだ「いのちのバネ」についてもう一度学び直しました。
「ぼよよん行進曲」という中西圭三作詞作曲の歌を紹介してくれました。
「どんな大変な事が起きたって 君の足のその下には
とてもとても丈夫な「ばね」がついてるんだぜ 」
という歌詞なのです。
足の下にはとてもじょうぶなバネがついているという言葉に私も再び心惹かれました。
それから最近奘堂さんが、実家の母を訪ねられたことを語ってくださいました。
月に一度坐禅会で上京した折りに、実家を訪ねて、草を刈ったりなさっているそうなのです。
もう九十二歳になるそうなのですが、橫になっておられて、知り合いの方が訪ねてきてくれたので、声を掛けると、両足を持ち上げて、バネのようにして起き上がったそうなのです。
その姿に感動されたのでした。
そこから
白隠禅師の「長く両脚を展べ、強く踏みそろえ、一身の元気をして臍輪気海丹田、腰脚足心の間に充たしめ」という言葉を紹介してくれました。
白隠禅師の『夜船閑話』にある言葉です。
白隠禅師はお若い頃にあまりに修行がはげしかったためなのか身心を壊してしまわれました。
どんな状態になったかというと、『夜船閑話』には次のように書かれています。
『ZEN呼吸』(春秋社)にある伊豆山格堂先生の現代語訳を引用します。
「日常を反省してみると、動と静の二つの境涯、日常と坐禅が全く離ればなれで調和していない。
進退去就の動作がぎごちなく自由でない。それで大いに踏ん張って今一度死に切って大悟しなければと、歯をくいしばり両眼を開いたまま坐禅をし寝食を忘れるばかりの修行を始めた。
ところが一ヶ月にもならないのに、心火逆上してのぼせあがり、肺が衰え、両脚は氷雪の中に漬けたように冷え切り、両耳は耳鳴りして渓声を聞いているようである。
肝臓と胆嚢の働きが弱まり、動作がおずおずし、心は疲れ切った状態で、寝ても醒めても種々の幻覚を生じ、両腋下にいつも汗をかき、両眼にはいつも涙がたまる状態であった。
それで遍く名僧を尋ね、広く名医を探し求めて治療を受けたが、百薬寸功なしであった。」
という状態に到りました。
そこで白幽仙人を訪ねて内観の法を教わるのです。
内観の法というのはどんなのかというと、
「若し此の秘訣を実践しようと思うなら、しばらく公案(禅問題) 工夫の修行をやめ、先ず熟睡してから目をさますのだ。
まだ眠りにつかず目を閉じない時に、長く両足をのばし、強く踏みそろえ、全身に籠もる天地根元の気をへそ下の下腹部、腰と足、足のうら土踏まずに充たしめ、いつも次のように観念するといい。
わがこの気海丹田 (へそ下の下腹部)・腰・脚・足心(土踏まず) そのまますべて是れ我が本来の面目(本心・本性)である。
その面目(顔つき・様子)はいかなる様子をしているか?
我が此の気海丹田は、そのまますべて「唯心の浄土」(浄土は我が心)である。
その浄土にはいかなる荘厳があるか?
我がこの気海丹田はそのまますべて「己身の弥陀」(弥陀はおのれ)である。
その弥陀はいかなる法を説くか?
繰り返し繰り返し常にこのように観念すべきである。
観念の功果がつもると、一身の「元気」がいつの間にか腰・脚・土踏まずの間に充ち足りて、臍下丹田・下腹部がひょうたんのように張って力があること、あたかも蹴鞠に使う皮製の鞠をまだ篠打ちしない時のようであろう。
このようにひとえに観念し続け、五日七日乃至二週間三週間を経過しても、今迄の五臓六腑の「気」の滞り、神経衰弱や肺病等の病気が徹底的に治らなかったら、この白隠の首を切り取ってもよろしい。」
というものです。
その結果白隠禅師は
「自分の年は本年七十を越えたが、少しの病もなく、歯が抜け落ちることもなく、眼や耳もますますハッキリし、ともすれば老眼鏡を忘れる位である。
毎月二度の説法今もって怠ることなく、諸方の請待に応じ、三百人五百人の人々の集まりで、或いは五十日、七十日もの間、経やら禅録やらを講本として、雲水僧の所望に従ってやたらに説きまくることおよそ五、六十回に及んだが、遂に一日たりとも午前の講座を休んで、そのため外来の人々が講了後の斎座(中食)に出ないで散ずるということはなかった。
身心ともに健康で、気力に至っては二、三十歳の時より遙かに勝っている。
これ皆内観の秘法の不思議な効果によることと思う」と仰せになるほどお元気になられ、長寿を全うされたのでした。
特に奘堂さんは、「長く両脚を展べ、強く踏みそろえ、一身の元気をして臍輪気海丹田、腰脚足の間に充たしめ」という処を強調されました。
その実践として、赤ん坊が寝返りをする動画や猫がノビをして起き上がる動画を見せてくださいました。
まさに全身をバネにして足を強く踏んで起き上がっているのです。
また『遠羅天釜』にある、
不断坐禅を学ばん人は、 縦い何分の聖教を披覧し何分の法理を観察[かんざつ]し、或は長坐不臥し、或は六時行道すと云えども、常に心気をして臍輪気海、丹田腰脚の間に充しめ、塵務繁絮の間、賓客揖譲の席に於ても片時[へんじ]も放退せざる時は、元気自然に丹田の間に充実して、臍下瓠然たる事、未だ篠打ちせざる鞠の如し。」
という言葉を紹介されました。
白隠禅師は
「何をするにしても、常に心気を下腹部(臍輪気海丹田)に充実させることです。
仕事の合間、客人と応対する時も、日常生活のどんな時も、常にたゆまずこれを続けるならば、一身の元気は自ずと丹田に充実して、ちょうど瓢箪のようにふくらみ、皮をやわらかくする前の蹴鞠のように堅くなる。
このようになるならば、一日中、坐禅・読誦・写経・説法など、何をしても決して疲れることなく、心は次第に寛やかに、気力はいつも充実して勇壮になり、真夏でも扇を使わず、厳冬になっても足袋も着けず暖を取らず、百歳になっても歯も丈夫で、必ず長寿を得ることができます。そして、いかなる道も徳も成就することができるでしょう。」
とも述べておられます。
こちらは『白隠禅師法語全集 第九冊 遠羅天釜』(禅文化研究所)にある現代語訳です。
元気を全身にみなぎらせておられる奘堂さんに接すると、こちらも元気になるものです。
横田南嶺