盤珪禅師のお寺へ
講演は「拝むこころ」と題してお話しました。
あらかじめ講演の内容を以下のように書いておきました。
「私はただいま円覚寺の管長を勤めていますが、もとは和歌山県の新宮市で、鉄工業を営む家に生まれました。満二歳の時に祖父の死に遭い、死とは何か、死んでどこに行くのかを求めて、十歳の時から坐禅を始めました。
はじめて禅宗のお寺で坐禅をしたときに、禅の「老師」と呼ばれる方のお姿に触れて感動しました。なにか死の問題を越えられた方がここにいらっしゃると感じたのでありました。
その時に老師は、「今日ここにお集まりの方はみんな仏さまです」と手を合わせて拝まれました。私は驚きました。自分たちのいったいどこが仏なのだろうかと、不思議に思いました。
それ以来、半世紀にわたって坐禅を続けてきて、やはりその時に老師の仰った通りだったという結論に達することができました。
今日に到るまでめぐりあうことのできた多くの老師や和尚さまの思い出を通して、「拝むこころ」の大切さを皆さまとご一緒に学んでみたいと思っています。」
という次第です。
まず「拝む」とはどういうことでしょうか。
『広辞苑』を調べてみると、四つほどの意味が書かれています。
身体を折りかがめて礼をする。おろがむ。
②掌(てのひら)を合わせて神仏などを礼拝する。
③心から願う。嘆願する。
④「見る」の謙譲語。「お顔を拝む」などという場合です。
「祈る」はどうかというと、
「①神仏の名を呼んだり言葉を捧げたりして、幸いを請い願う。祈願する。
②心から望む。希望する。念ずる。
③(相手や物事に)わざわいが起こるように祈願する。のろう。」
という意味があります。
そうじで拝むというのは、手を合わせたり、体を折りかがめるなどの身体的な意味が強いのに対して、祈るは、心で行うことの意味合いが強いように感じます。
私が十歳の時に初めて禅寺で坐禅して目黒絶海老師のお話を聞いたときには、老師の礼拝されるお姿、拝む姿に感動したのでした。
ご本尊さまに焼香して恭しく礼拝されるお姿、「今日ここにお集まりのみなさんはみんな仏さまです」と皆を合掌して拝まれたお姿に感動したのでした。
今回の姫路行きで楽しみしていたのが、盤珪禅師の開創されたお寺である龍門寺にお参りすることでありました。
盤珪禅師は、この兵庫県姫路市網干区浜田にお生まれになったのです。
お生まれになったのは元和八年(一六二二)です。
父は儒者で医師でもあり、その三男として出生しました。
ご生家は盤珪禅師の妹である寿清尼が開基となり義徳庵として、今は義徳院となっています。
幼い頃は腕白者だったようですが、二、三歳の頃より死ぬことを恐れたというのです。
隣村の大覚寺に書を習いに行かされていますが、これがお嫌いだったようでいつも早く帰ってくるのでした。
兄がとがめても聞かないので、兄は、途中の渡し守に命じて、弟が来ても川を渡すな、と頼んだというのです。
そこでしかたなく水底をくぐって帰ってきたという話があります。
十一歳のとき父が亡くなりました。
そして十二歳のときに「大学の道は明徳を明らかにするに在り」という『大学』の一句にであい、いったい明徳とは何かという問題に取り組みます。
まず儒者に尋ねてみると、語句の説明は試みても、本当のことは分りません。
揚句の果ては、そのようなむずかしいことは禅僧にきいてみよといわれて、禅寺を訪ねるのであります。
盤珪禅師はこの明徳を明らかにして、母にも納得してもらいたいと思ったのでした。
母思いの方であったことが分かります。
この思いはついに通じて、『法語』に「終には願成就いたして、母にも能く弁へさせまして、死なせましてござる」と書かれています。
盤珪禅師のお母様は九十二歳まで長生きされました。
延宝八年(一六八〇)お亡くなりになったときに盤珪禅師は五十九歳でした、
十五歳のとき、生家の菩提寺である西方寺(浄土宗西山派) に行って念仏に専念します。
十七歳になって、赤穂の随鴎寺の雲甫全祥禅師について得度しました。
この雲甫禅師のもとで数年を刻苦修行して、二十歳の頃に寺を出て、諸方の知識を訪れて古人の道をたずねたのでした。
ときには京都の五条の橋の下で、ときには山城の松尾(京都山城の松尾大社)の拝殿に坐して七日断食し、あるいは、摂州大坂の天満 (大阪市天満)のあたりで、菰をかぶって寝たこともあったのでした。
また吉野(奈良県吉野山) で山ごもりも試みました。
「あそこな山へ入つては、七日も物を給べず、爰な巌に入つては、直に尖った岩の上に、着物を引きまくって、直に坐を組むが最後、 命を失ふことも顧みず、自然と転けて落ちるまで座を立たずに、食物は、誰が持つて来てくれう様もござらねば、幾日も食せぬことが、まゝ多うござった」というすさまじい修行をなされました。
そんな数年の刻苦修行の後、二十四歳のとき再び随鴎寺に戻ります。
そこで野中というところの草庵に入り、門を閉じて坐禅三昧に専念しました。
とうとう病にかかります。
その病が重くなって痰を吐くと大指の頭程の血痰が固まり、出るほどでした。
そんな状況で「折節ひよつと、一切事は不生で調ふものを、さて今まで得知らいで、むだ骨折ったことかな、ようようと思ひ付きまして、と、従前の非を知つた事でござつたわいの」という体験をなされたのでした。
そののち長崎の道者禅師を訪ねたりして修行を重ねて、三十八歳のとき、京都妙心寺に登り、ここで初めて盤珪の号を称えています。
さらに四十歳のとき、讃岐 (香川県)の丸亀城主京極高豊が盤珪禅師の故郷浜田に天徳山龍門寺を創建したのでした。
お亡くなりになったのもこの龍門寺でありました。
奇しくも講演したのが、九月三日で、盤珪禅師のご命日でありました。
そこで講演のあと、龍門寺さまにお参りしました。
まずは盤珪禅師をお祀りしている開山堂にお参りさせてもらいました。
盤珪禅師ご自身がお作りになったお像だそうです。
開山堂の大きさには圧倒されました。
今も河野太通老師が毎朝お供えをしてお参りされているとうかがいました。
そうして本堂にお参りして、河野太通老師にお目にかかりました。
老師は、ただいま九十四歳ですが、とてもお元気で矍鑠とされていました。
私の前の花園大学の総長でいらっしゃいます。
妙心寺派の管長や全日本仏教会の会長もおつとめになられたお方であります。
祥福寺の僧堂師家を長年おつとめになって退任されて後、この龍門寺にお入りになって復興されたのです。
龍門寺に来た頃はどこも雨漏りがしてたいへんだったと仰っていました。
立ち居振る舞いにも人の手を借りることなく、すっと立ち上がられるのには敬服しました。
老師は毎朝太極拳をなさるとかで、これもお元気の秘訣かと思いました。
帰りの道中では、西方寺の前を通って、ご生誕地である義德院の前も通らせていただき、有り難い思いでした。
いつか盤珪禅師のお寺龍門寺にお参りしたいと思っていましたので、ご命日にお参りできて感動でした。
横田南嶺