どうしたら「無事」に
唐代の馬祖の禅の特徴から、臨済禅師の教えへと、その流れがよく分かる講義でありました。
最後に、「你ら、祖仏を識らんと欲得(ほつ)する麼や?
祇(まさしく)你ら、面前に聴法する底(もの)こそ是なり。」
では無位の真人とは、誰のことと問われたなら、この話を聞いているあなた自身ですと説いて、終えられたのでした。
これはまさに臨済禅師の教えの端的を示してくださったのでした。
しかし、そう言われて、ああなるほど無位の真人とはこの私自身のことだったのだ、仏とはこの私自身の事だったのだとは、納得できるかというと、これは難しいものです。
思えば私が十歳の頃、はじめて興国寺の目黒絶海老師のお話を聞いて、老師が「今日ここお集まりのみなさんは、みんな仏さまです」といって拝まれたのですが、そう言われて、衝撃ではありましたが、納得のできるものではありませんでした。
それからやはり何十年もの坐禅の結果、なるほどその通りだったと腑に落ちたのであります。
ではどうしたら、この私自身が仏であると納得ができるのか、その問題について私は講義をしたのでした。
その講義の前に、三十分ほどイス坐禅を行いました。
いつも都内で行っているイス坐禅では、二時間かけてじっくり体をほぐして坐るようにしています。
今回は三十分しかありません。
しかも会場には八十名もの方が集まっています。
橫に手を広げることもできません。
前に机もあります。
体を動かすには実に手狭なのであります。
そこでまず三十分のうち、十五分で体をほぐして十五分を坐るように考えました。
十五分ですので出来ることは限られています。
はじめに深大寺の釈迦如来倚像の写真を見せてみました。
まずイスに坐った仏さまの姿を見てもらいました。
みなこれからこのようにイスに坐った仏さまになるのだとイメージを持つことが大事だと思ったのでした。
それからみんなでまずノビをしました。
九十分にわたって講義を聞いたあとなので、まず銘々思い思いにノビをしてもらいました。
そして今回は、
足指に力を入れる
仙骨を立てる
頭頂を意識する
目を休める
の四つを行いました。
足の指を大事にしたいのですが、狭いので靴を脱いで裸足になってもらって足指を動かすことも難しいのです。
そこで靴を履いたままで、立ってもらって足指に力をいれながらつま先立ちをやってもらいました。
なんどか踵を持ち上げて足の指に力が入るようにつま先立ちになって踵を下ろすことをしました。
それから片方の足の踵をあげて、足先を地面につけて、足首を回してもらいました。
これで足指に力を入れて足首をほぐしたのでした。
それからお尻の下に両手を入れて座骨を感じてもらいました。
手の平を上にしてお尻の下に敷いて、左右に体をゆすると座骨がはっきりします。
座骨がイスの座面にしっかり突き刺すような気持ちで坐ると腰が立つものです。
仙骨がどこにあるのか、画像で示して、各自で仙骨に触れてもらい、この仙骨を立たせるようにしました。
そうして、頭のてっぺん頭頂を上から軽く指で押さえるようにして、その押さえる力に対抗して背筋を上に伸ばすようにすると自然と背筋が伸びます。
そして肩を回してから、目を休めるワークを行いました。
これは今まで資料の文字を見つめていたので、目の緊張をとるためであります。
そうして腰を立てるようにしてイスに坐りました。
わずかの時間ですが、みなさんの坐相が美しく見えるようになりました。
私は立ったままでしたが、それでもすっきりとした気持ちになれました。
十五分ほど、明かりを消してもらって坐ったのですが、とても心地よい時間となりました。
頭も空っぽになった思いがしました。
他の方の感想を聞くことができなかったのですが、自分自身はとても気持ちよく坐れました。
坐れたといっても私は立ったままでしたが、坐れたという感じなのでした。
そうしてしばしお手洗いの休憩を挟んで私が九十分話をしました。
はじめは臨済禅師とはどのような人なのか、頂相などを示しながら話を始めました。
それから馬祖禅師の言葉を紹介してゆきました。
「本来有るものが今も有るのだから、修道や坐禅は必要がない。修道もせず、坐禅もしない、これが如来清浄禅に他ならない。」
何が本来有るのかというと、仏心であり仏性であり、法性とも言います。
お互いの心がそのまま仏なのですから馬祖禅師は「道は修習する必要はない。ただ、汚れに染まってはならないだけだ。何を汚れに染まるというのか。もし生死の思いがあって、ことさらな行ないをしたり、目的意識をもったりすれば、それを汚れに染まるというのだ。」と示されました。
臨済禅師もまた「諸君、仏法は造作の加えようはない。ただ平常のままでありさえすればよいのだ。糞を垂れたり小便をしたり、着物を着たり飯を食ったり、疲れたならば横になるだけ。」と説かれています。
ことさらに修行することなどないと言いながら、他のところでは、「諸君、出家者はともかく修行が肝要である。」とも仰せになっているのです。
臨済禅師は、もともとやまにやまれぬ求道心があって、「腹熱し心忙しくして奔波して道を訪う」というように「気はあせり心は落ちつかず、諸方に駆けまわって道を求めた」のでした。
はじめは戒律を研究し、大乗仏教の経典や唯識や華厳の論書を学ばれたのでした。
しかし、それらの学習では自身の問題の解決にはならないと気がついて禅に参じたのでした。
黄檗禅師のもとで純一に坐禅、看経、作務の修行をして、黄檗禅師に三度打たれ、その意味が分からないまま大愚禅師を訪ねて、大愚禅師からは、黄檗禅師はなんと親切で、あなたの為にくたくたになるまで導いてくれたのかと言ったのを聞いて、そこでようやく臨済禅師はハッと気がついたのでした。
何に気がついたかというと、お互いははじめから、仏心、仏性、法性の中にあるということを自覚したのです。
この自分自身の全体が仏であることを自覚したのでした。
凡聖、悟りや迷いの分け目のないことを自覚したのでした。
まとめますと、臨済禅師は、はじめにやむにやまれぬ求道心があって、そこから真実の道を求めて戒律を学び、坐禅し、作務にはげみ。経典を学んだのでした。
それが黄檗禅師と大愚禅師との機縁に触れて省覚することができました。
そこで無事となったのです。
そこから臨済禅師は自由な言語を用いて人々を導かれたのでした。
では我々はどうしたらそのような自覚を得られるのか、いろいろな修行していって一つの方法を編み出しました。
それが看話禅というものです。
これはまず理論的に解釈のできない言葉を与えます。
それによって修行する者の迷いのもととなっている知識、分別思考などを否定してゆきます。
精神的窮地に人為的に追い込みます。
そこから意識の変容をもたらすようにします。
そうすると無事となるという修行方法であります。
今一度まとめますと、お互い本来仏でありながらそのことが自覚できていません。
本来仏である自覚を妨げるものが、知識、分別、思考などです。
そこでそれらを除去します。
そして本来仏であることが自覚されます。
本来の仏の心が発露されるのです。
大事なことは本来仏であることの自覚です。
いかにして自覚するか、その方法は多岐にわたるものです。
看話禅というのはその一方法です。
看話禅はいかにも人為的に修行させるもの、あえて無理をさせるものです。
それに対して唐代の禅は、自らやむにやまれぬ思いがあって自らの必然性から求めたのです。
そしてその方法はさまざまでした。
その本来仏なることを自覚して無事となるのです。
そんな次第で本来仏なることを自覚するために、まずは臨済禅師のように戒に基づいた暮らしを大事にしようと、私はただいま布薩の実践に取り組んでいます
そして本来仏であるから今こうして歩いたり止まったり坐ったり寝たりして、情況に応じての対しかた、それら全てが道なのだということを自覚するために、日常普段できるイス坐禅に取り組んでいるのですと話をして終えたのでした。
横田南嶺