夢窓国師の活躍
円覚寺の修行僧も、僧堂がお世話になっている信者さんのお宅に棚経にまわっています。
私はというと、円覚寺の総代さんのお宅のみお参りしています。
円覚寺を出てすぐのところにあるので、てくてく歩いていくのですが、今年は日差しが強く、わずかな距離を歩くだけで汗が流れたものでした。
総代さんのお宅でお経をあげて、お茶をいただいていると、最近京都の苔寺にお参りしてきたという話題になりました。
苔寺にお参りしてとてもよかったというのです。
そこで私もあそこのお寺は夢窓国師ととてもご縁の深いお寺なのですと申し上げました。
私が苔寺にお参りしたのは、まだ京都にいた頃なので、三十数年前のことであります。
その実に幽邃な雰囲気に感動したことを憶えています。
夢窓国師が六十歳の頃に鎌倉幕府が滅んで建武の新政が始まりました。
鎌倉のお寺がどうなるのか懸念されたのですが、夢窓国師が後醍醐天皇に招かれ南禅寺に再住されたのでした。
後醍醐天皇も夢窓国師に帰依して禅宗を大事にされるようになったのでした。
しかし、建武の中興はわずか二年で終わってしまいました。
建武の乱といいますが、足利尊氏との戦いに敗れてしまい、後醍醐天皇は大和吉野へお入りになり、南朝政権、吉野朝廷を樹立しました。
尊氏の室町幕府が擁立した北朝との間で、南北朝の内乱が勃発したのでした。
足利尊氏が征夷大将軍に就任した翌年、後醍醐天皇は吉野で崩御遊ばされました。
夢窓国師が西芳寺を中興されたのはその頃なのです。
夢窓国師が六十二歳の時、建武の中興は敗れてしまい、夢窓国師は南禅寺を退いて臨川寺に帰りました。
暦応元年一三三八年足利尊氏が征夷大将軍になります。
暦応二年、夢窓国師は臨川家訓をお作りになっています。
この年後醍醐天皇は吉野で崩御なされました。
夢窓国師は、藤原親秀の請いによって西芳寺を中興されました。
西芳寺はもともと行基菩薩が建立された古いお寺でした。
西の方角という「西方寺」でありました。
夢窓国師が六十五歳の時、この西方寺を禅寺に改め西芳寺としたのでした。
夢窓国師は中興開山となりました。
「西芳寺」は「祖師西来、五葉聯芳」からとっています。
西芳寺の庭は天下の絶景として今に伝わっています。
このお庭には二つの禅の話がもとになって作られているそうです。
そこの黄金池、無縫塔、瑠璃殿、合同亭、無影樹、潭北亭などの名は、『碧巌録』にある慧忠国師の無縫塔の公案がもとになっています。
『碧巌録』第十八則にある問答です。
慧忠国師に、或る時、肅宗皇帝(正しくは代宗皇帝)が「師は百年後、即ち亡くなった後に何が必要ですか」と尋ねました。
すると慧忠国師は「私のために無縫塔を造ってほしい」と答えました。
どのような塔ですかと尋ねると、慧忠国師はしばらく黙ってから「わかったか」と言いました。
皇帝は「わからない」と答えます。
慧忠国師は「私には法を伝えた弟子の耽源がいて、このことをよくわかっています。招いて彼に問いなさい」といいました。
慧忠国師が遷化した後、皇帝が耽源を呼び寄せて、どういう意味かと問いました。
耽源は次のような偈を説いて示しました。
湘の南、潭の北、中に黄金有って、一国に充つ。
無影樹下の合同船、瑠璃殿上、知識無し。
というのであります。
西芳寺に夢窓国師は、指東庵を建立していますが、これは亮座主と熊秀才の問答がもとになっています。
『大慧武庫』にある話です。
熊秀才が、洪州の西山に遊んで浄相という所に至った時、たまたま盤石の上に坐っている老僧を見ました。
白髪白眉で葉を編んで衣としていました。
熊秀才は、この僧は曾て馬祖道一禅師(七〇九ー七八八)との問答の後、西山に入って消息を絶った亮座主ではないかと思いました。
そこで、近づいて「あなたは亮座主ではありませんか」と尋ねました。
するとその僧は、黙って東を指さしました。
指された方向を見て振り返ると、僧の姿がもう見えません。
折から雨があがって、僧が坐っていた所に行って見ると、その僧が坐っていた場所だけ乾いていました。
熊秀才は溜息して言いました。「宿縁がなかったのだ。会ったけれども会わないのと同じだ」。
夢窓国師は、亮座主と思われる白髪の老僧が東を指さし、姿を消したことに、深い意味を見て「指東庵」と名付けたと言われています。
六十五歳の時、後醍醐天皇を追善するために天龍寺を建てることになりました。
六十六歳になって、天龍寺は造営され、光厳上皇が後醍醐天皇の霊牌を多宝院に祀りました。
六十七歳の時には天龍寺船を出して元の国に遣わして貿易して天龍寺建立の資金とされています。
六十八歳の時、光厳上皇が西芳寺で夢窓国師から法衣を受けて弟子の礼をとっています。
足利直義の意を受けて高師直が正脈庵を真如寺とし、夢窓国師を招きました。
正脈庵というのは無外如大尼が仏光国師の塔所として開いた寺であります。
無外如大尼は仏光国師の法を継いだ禅僧です。
そこで仏光国師を開山とし夢窓国師は二世となりました。
この年の八月、八坂の法観寺の塔慶讃仏事導師を務めています。
晩年も席温まる暇もない夢窓国師の活躍であります。
横田南嶺