夢窓国師のおかげ
日本に臨済の禅を伝えた栄西禅師も、九州で活躍なされていて、更に鎌倉幕府に迎えられたのでした。
北条政子に招かれて源頼朝公の一周忌の導師を務められています。
また鎌倉に寿福寺を開かれました。
そんな鎌倉とのご縁があって、二代将軍源頼家公が開基となって京の都に建仁寺を建てることができたのでした。
建仁寺が源の建てたお寺だというのは注目すべきことです。
それからなんといっても五代執権の北条時頼が自身深く禅に参じていました。
兀庵禅師に参じていたのでした。
この時頼公が建長寺を建てられたのでした。
鎌倉の建長寺は禅の中心となったのでした。
そのあと時頼公の子である時宗公もまた禅に深く参じて、円覚寺を開創されました。
夢窓国師は、京の建仁寺そして鎌倉の建長寺や円覚寺で修行に励まれたのでした。
元弘三年/正慶二年(一三三三)五月新田義貞の率いる軍勢が鎌倉に攻め込んできました。
北条高時は東勝寺で自害して果てました。
子の邦時も一週間後に処刑されてしまいました。
これにより、鎌倉幕府は滅亡したのでした。
建武元(一三三四)年、 いよいよ後醍醐天皇の建武の新政が始まりました。
そのとき、夢窓国師は六十歳でした。
同じ年の秋、後醍醐天皇の皇后が亡くなりました。
そこで天皇は夢窓国師を招いて供養をしました。
その後、再び夢窓国師を招き、後醍醐天皇は弟子の礼をとったのでした。
後醍醐天皇は「私は禅宗を盛んにしたいと思うがどうだろうか」と夢窓国師に問いました。
それに答えて夢窓国師は「陛下のお言葉は決して虚しいことはありません」。つまり、「それがよろしいと思います」と返事をしたのです。
そこで後醍醐天皇は夢窓国師に「もう一度南禅寺に住して、禅宗の教えを大いに広めてほしい」と招請します。
しかし、夢窓国師は「自分はもう年をとっていますし、病気ですから」と言ってお断りしました。
それに対して後醍醐天皇は「仏法が盛んになるのも廃れるのも、そのときにどういう人がいるかにかかっている」と言います。
「仏法の隆替は其の人に係る」というのです。
「隆」は「栄える」ですが、「替」には「替わる」のほかに「廃れる」という意味もあります。
繁栄するか廃れるかは、その人にかかっています。
「もしあなたが断られるのなら自分にはどうすることもできない」と判断を夢窓国師に委ねます。
それで、夢窓国師は後醍醐天皇の言葉に従って再び南禅寺にお入りになりました。
はじめて南禅寺に住したのも、後醍醐天皇の命によって五十一歳の時でした。
鎌倉では北条時頼公、時宗公、貞時公、高時公と北条家は世々代々禅宗を守り、大事にしてきました。
そのおかげがあって、鎌倉時代は皆、禅宗を大事にしたけれども、その北条家が滅んでしまったので、これから一体誰が禅宗を守るのであろうかという声が起こってきました。
北条家が滅んで禅宗はどうなるかと不安になったのです。
禅宗はもうだめだろうという噂が後醍醐天皇の周りにもあったのでした。
そこで後醍醐天皇が夢窓国師をお呼びになって、南禅寺に住させたのです。
そのことを知って禅宗の人たちは、「後醍醐天皇が再び夢窓国師を重んじてくださった。ああ、これで禅宗はまだ大丈夫だ」と、喜びの声が山林に溢れたのでした。
夢窓国師もますます心を勇ましくして、禅宗を守っていくことを自分の務めだと思うのです。
人々は禅宗が滅びずに残ったのは夢窓国師の力である、と言いました。
ところが、これを面白く思っていない人もいました。
鎌倉幕府や武家に対して、よく思っていない人たちがいたのです。
もう北条家が滅んだのだから、鎌倉幕府に関係するものはお寺も何も一掃したいという思いを抱いていたのでしょう。
北条家が滅亡したときにも、後醍醐天皇に「もう禅宗などつぶしてしまってはどうですか」と進言する近臣がいたようなのです。
近臣たちから言われて後醍醐天皇もさすがに困ったのでしょう。
夢窓国師に「どうしたものか」と相談をしました。
それに対して、夢窓国師はこう答えました。
「確かに今の禅宗は 昔のように優れた人たちばかりではないかもしれません。
だから、誹る者がいるというのは仕方ないかもしれない。
けれども、皆がお釈迦様と同じレベルにないからといって、今のお坊さんを粗末にするようなことがあっていいのでしょうか。
お釈迦様そのものでないからといって、その仏像や仏様の絵を粗末にしていいのですか。
お釈迦様の直接の声ではないからといって、お経に書いた文字を粗末にしていいのでしょうか。
そういう道理はないのではないですか。
そういうものも粗末にしていいはずはありません。
功徳を積みたいと思うのであれば、今のお坊さんを大事にするべきです」と。
大勢のお坊さん方の中には誹りを受けるような人もいたのだろうと思います。
禅宗は鎌倉幕府が終わって非常に困窮しておりましたから、そういう中で問題を起こす人もいたのでしょう。
禅宗を潰せと言っていた人たちは、それらの問題を起こす一部の人を捉えて糾弾していたのでしょう。
どこの世界でもそうですが、悪い人間は目立ちやすく、きちんとしている人は表には出ないものです。
そして目立つ者が叩かれるのです。
だから、夢窓国師は「問題のある僧侶は一部の者にすぎない。
大勢の人の中にはお釈迦様の教えを弘めようとして真面目に修行をしている人もいるのです」と言ったわけです。
後醍醐天皇は、国師の言うことは本当かなと思い、禅宗の修行とはどんなものか見てみよう、また禅宗のお寺がどういう規則を保っているのか自分の目で見てみようと考えて、大勢の家臣たちを従えて南禅寺に出向きました。
夜中に後醍醐天皇がご自身で南禅寺の坐禅堂や本堂などのお堂を見て回ったところ、禅宗のお坊さんはまるで枯れ木のようにずっと姿勢を正して坐っていました。
それを見て後醍醐天皇は非常に喜ばれました。
そして次の朝に夢窓国師に説法をしてもらいました。
また修行僧たちが普段寝泊まりしているお堂に入って昼ご飯を食べに行くときに、全員が一列に整列して歩いている様子をご覧になって、「見事な姿である。礼儀作法がきちっとしている」と感心しました。
それから夢窓国師に説法させて、後醍醐天皇はとても喜ばれました。
後醍醐天皇は、もともと夢窓国師に対する信頼はあったのですが、あまりにも周りの者が禅宗は駄目だと言うので、ご自分の目で南禅寺に行ってお堂を巡ってみると、その疑いが解けて信心がますます深まりました。
こういう出来事があり、鎌倉のお寺もそれ以上滅ぼされることがなかったのです。
『円覚寺史』には「円覚寺は、夢窓一人の尽力によって、危機から救われ、室町時代に生きのびたことになる」と書かれているのです。
横田南嶺