死を思う
なんといっても六日が広島原爆の日で、九日が長崎原爆の日です。
そして十五日が終戦記念日ですから、先の戦争で亡くなった多くの御霊のために祈りを捧げます。
それに仏教のお盆が重なります。
もともとは七月十五日ですが一月遅れの八月十五日にお盆の行事を行うことが多いのです。
ご先祖の御霊を供養する時でもあります。
亡くなった御霊が帰ってくるのだという信仰があります。
それに加えて、今年は能登の大地震で一年が始まり、半年経ってもなかなか復興が進まないと言われていて、円覚寺でも先月の日曜説教で復興を応援する企画を行ったのでした。
八月の八日に、宮崎県で大きな地震があり、気象庁は南海トラフ地震臨時情報(巨大地震注意)が出されました。
海水浴が禁止になったところもあるようであります。
そんなところで、九日の夜に、神奈川県で地震がありました。
鎌倉は震度3でしたので、それほど大きな揺れではなかったものの、いつもとは違う揺れに驚いたのでした。
はたしていつ何が起こるかわからないという思いでお盆を迎えます。
フランスの詩人クローデルの言葉を思い起こします。
「大津波、台風、火山の噴火、地震、大洪水などたえず何か大災害にさらされた日本は、地球上の他のどの地域よりも危険な国であり、つねに警戒を怠ることのできない国である」
という言葉です。
クローデルは大正時代に駐日大使をつとめた詩人であります。
「大地は堅固さというものを全く持ち合わせていない」とも言われています。
詩人が小石、砂、溶岩、火山灰が堆積した国土の不安定を強調したのも、これが関東大震災直後だからでした。
関東大震災が1923年9月1日でしたので、まもなく101年になります。
百年周期と考えればいつ地震がきてもおかしくないのであります。
大きな地震でも命さえあれば、人間はなんとかやってゆけると思いますが、死は誰しも避けたいものであります。
松原泰道先生は、
「なぜわたしたちは死ぬのが恐いのでしょうか。
いつ来るかわからないのが死ですが、どうしたらいい死に方ができるのでしょうか。
悔いのない死というのはあるのでしょうか。
「明日死んでも悔いはない」という満足できる死を迎えるためには、どのような生き方をすればいいのでしょうか。
そして、そもそもなぜわたしたちは死ぬのでしょうか。」
と私たちに問いかけます。
更に松原先生は、
「「死ぬこと」を考えはじめると、とめどもなく疑問が浮かんできてしまいます。
じつは、これらの疑問に対して一つのヒントになることばがあります。
「人間は生まれたから死ぬ」
これはお釈迦さまのことばです。
なんと単純明快なことばでしょうか。
そして、なんと力強いのでしょう。このことばからは、死に対する恐怖も、愚痴も、後悔も見いだせないではありませんか。
釈尊の死は老衰だけではなく、弟子のつくった料理にあたって亡くなったのですが、嘆き悲しむその弟子に別の弟子を遣わしてつぎのように教えています。
「わたしは、ふだんからそれを教えているだろう。
人間は生まれたから死ぬのだ。
おまえの料理を食べたから死ぬのではなく、生まれたから死ぬ。
おまえの料理をかりに食べず、今日を生き抜いたとしても、明日はほかの原因で死ぬかもしれない。
だから嘆き悲しむことはないのだ」と。」
と説かれています。
これは一九九七年に発行された松原泰道先生の『人間は生まれたから死ぬ』(ごま書房)のはじめにある言葉です。
更に
「この、お釈迦さまのことばからは、つぎのような考え方もできます。
たとえば、ゲーテは八十三歳で亡くなったわけですが、「ゲーテは死ぬまでに八十三年を必要とした」と考えることです。
この発想の逆転は、わたしたちに”死”についてひとつの道を見せてくれます。
つまり、”生”があるからこそ”死”があるのだということです。
ですから、かりに一年後に死を迎えても、それが十年後、二十年後になったとしても、よりよい”死”を望むのであれば、精一杯生きる”ことです。
「いい死に方」とは、「いい生き方」から得られるものだということです。」
と説いてくださっています。
「「年年歳歳花相似、歳歳年年人不同」
(年々歳々花は相似たり、歳々年々人同じからず)
毎年咲く花は変わらないが、人のほうは年ごとに老いて変わっていくことよ……。
この詩は初唐の宮廷詩人、宋之問の作で、花は、年があらたまるごとに命も新しく、蓮の花も菊の花も蘭の花も、梅も桜も、去年とまったくおなじように美しい姿を見せるけれども、人間は年ごとにすこしずつ老いて、今年の姿はもう去年の姿ではなく、来年はさらに老けていくだろうし、もしかするとすでにこの世にはいなくなっているかもしれない、ということをうたっています。」
と示されて、次のように仰っています。
「たしかに、花は季節がくれば咲き、やがて根元に散って枯れて腐って土になり、それがまた肥やしとなって、つぎの年、そのつぎの年の花の命になって再生していきます。
森にはたくさんの木々があり、花だけでなく無数の葉を茂らせては枯れさせて、その葉が地に落ちてまた土になり、肥やしになってつぎの命を繁茂させているのです。
庭に一本の栗の木があるだけでも、そこから散る葉の数は数千、数万というほどの膨大な量です。
森全体、山全体となると、木の数、木の種類、花の数、葉の数は、これはもう無限といってもいいでしょう。
一枚の木の葉、一つの花が命の単位なのか、それとも一本の木の幹が一つの命の単位なのか、あるいは山全体、森全体を一つの命の単位と考えるべきなのかもしれません。
それは、その人のとらえかたしだいでしょう。
わたしには、人の命も、この一枚一枚の木の葉や一つ一つの花と、まったくおなじなのではないかと思えるのです。
一枚の葉や一つの花が、それぞれ土にかえってまた新しい命に再生していくように、一人一人の人間の命も土にかえりまた蘇っていく。
花や葉は、広い森のなかのどの土になり、どの花、どの葉の肥やしになるかはわからないが、ただ確実に土にかえって新しい命の肥やしになる。
人の命もまた、いったん死んでもどこかでかならず再生されていく。むろん、松原泰道として一度の人生を終了したわたしの命は、再生されたときにはまったく別な新しい命になってしまっている……。
そんなふうに考えることが妥当であれば、人は死んでもかならず生まれ変わると断言することもできます。」
と書かれています。
こんな大いなる命の循環を仏の命、仏の心、仏心と名をつけているのであります。
死について考え、死生観を持っておくことは大事であります。
横田南嶺