師との出会い
更に二十一歳、鎌倉に行き、東勝寺で無及禅師に参じています。
建長寺に行き、葦航道然禅師に師事しました。
二十二歳になって、円覚寺に行き、桃谿徳悟禅師に参じました。
これらの禅師方はみな大覚禅師のお弟子であります。
癡鈍禅師が建長寺にお入りになるにあたって、桃谿禅師は、夢窓国師を建長寺に行かせました。
癡鈍禅師が建長寺にお入りになる折りに、禅問答をする役目の僧がかけて、急に夢窓国師がおつとめになりました。
「一衆、舌を吐く」と『年譜』に書かれていますが、見事な問答にみな驚いたのでした。
二十三歳の頃には、『年譜』に「師は音声和雅にして人をして楽しみ聞かしむ」とあります。
お声がよくて、皆は楽しみ聞いていたということです。
声というのは人柄がよく表れると申しますが、多くの人に慕われるお人柄だったということがわかります。
楞厳頭を務めたとも書かれています。
楞厳呪というお経をあげる時に、はじめのところや回向を読み上げる係であります。
おそらく中国式に読んでいたと思われます。
語学もよく学ばれていたと察します。
そんな頃に一山一寧禅師が中国よりお見えになりました。
一山禅師は一二四七年のお生まれで、一二九九年に日本に渡ってみえました。
すでに五十三歳であります。
北条貞時は、一山禅師を元のスパイではないかと疑い、一時伊豆の修禅寺に幽閉したのでした。
後に疑いが晴れて、建長寺に迎えられました。
更に円覚寺、浄智寺の住持を経て、正和二年(一三一三年)には後宇多上皇の懇請に応じ、上洛して南禅寺第三世となった方であります。
夢窓国師は京都に行き、無隱禅禅師のおそばにいました。
一山禅師が元からお見えになったというので、夢窓国師も京の都で一山禅師にお目にかかっています。
一山禅師は、若き夢窓国師に会って「甚だ喜ぶ」と『年譜』に記されています。
二十五歳の時に、夢窓国師は鎌倉に行き、建長寺で一山禅師について修行します。
大勢の修行僧が集まったようで、試験をされました。
偈頌を作らせてよくできた者を入門させました。
入門した者も上中下の三科に分けました。
上科は二人しかいなく、夢窓国師はその一人でした。
二十六歳になって夢窓国師は、奥州に旅に出ています。
その頃の夢窓国師の心境について柳田聖山先生は、『日本の禅語録7 夢窓』に次のように書かれています。
「一山について鎌倉に来て、建長寺や円覚寺の空気になれてくると、夢窓の胸にふたたび大きい疑問がよみがえる。
第二の挫折の時期である。かつて、平塩山でぶちあたった壁よりも、何十倍か部厚い。建長寺も、円覚寺も幕府の菩提寺だが、そこはまた時代の学問のメッカである。
今日の国立大学にひとしい。平塩山や東大寺とはちがう、新しい学問の根本道場であった。鎌倉政権は、すすんで熱心に宋の学問を受けいれた。
しかし、建長寺は創立から五十年、円覚寺もすでに二十年を経ている。
設備はあたらしいが、創立の精神は何かすでに空洞化している気配だ。
どの寺も毎日のように、祈禱牌がかかっている。
多勢の僧が集って、檀那の長寿と福禄をいのるのである。
これが、仏教であろうか。これが学問であろうか。
僧は多く、財は豊かである。新しい中国の文物も見られる。しかし、何かが欠けている。一山の講義も、聞手に高度の知識を要求する。子曇も、大差はない。
このまま、大勢にしたがっていると、自分は果してどうなるのか。
けっきょく、駄目になりはしないか。」
というのであります。
そして奥州の松島寺まで赴いています。
この旅路で、高峰顕日禅師、仏国国師のことを耳にします。
仏国国師は、後嵯峨天皇の御子であります。
東福寺で出家して、建長寺で兀菴普寧禅師について修行します。
しばらくして那須の雲巌寺に住していました。
弘安二年無学祖元禅師は来朝して、仏国国師は、無学祖元仏光国師に参じて、法を継がれるのであります。
当時九州の大応国師と共に仏国国師は二大甘露門と称せられていたほどです。
夢窓国師が那須の雲巌寺を訪ねると、残念ながら仏国国師は、鎌倉に出て浄妙寺に住していました。
仏国国師は不在でしたが、雲巌寺で一冬を過ごされました。
明くる年、二十七歳で、鎌倉に戻り建長寺で一山禅師に師事しました。
二十八歳の時に一山禅師は円覚寺も兼ねられて、夢窓国師も従われました。
その頃夢窓国師は、祖師の公案問答で明らかでないものはないと自負するに到りました。
しかし、ある日その非を知って愕然とします。
「自分はかつて天台や真言の仏教学を学んでいて、そこから出て禅の教えに参じるようになり、もう十年が過ぎた、
その間は、多く言葉を漁ってきただけではないか、
仏様は、経典というのは月を指す指のようなものであり、祖師の言葉は門を敲く甎のようなものだと言われたが、自分はその指を捨てて、ただ甎を大事にしているだけではないか。
愚かなことではないか」と反省しました。
そこで今まで学んできたノートの類いをすべて竈で燃してしまい、意を決して一山禅師に参じました。
「私はまだ自分自身のことがはっきりしていません、どうか直にお示しください」
一山禅師は、「我が宗には語句もなく、一法として人に与うる無し」と突き放しました。
夢窓国師は、「どうか和尚慈悲をもってお示しください」とお願いします。
一山禅師は「方便も無く、慈悲も無し」と答えました。
その後夢窓国師は何度もそのようにお願いし、一山禅師は、そのたびごとに「方便も無く、慈悲も無し」と答えます。
夢窓国師は、迷います。
「一山禅師のお示しになるところは、悟りの心境を表すものとしては、まことにその通りだ。
しかし、自分はまだ悟ってはいない。
悟りの世界に入る為の方便をお願いしているのに、この和尚は悟りの世界を示すばかりである。
一山禅師は、中国から見えた方なので、自分の語学力が不足して、十分に質問できていないのではないか」と考えました。
そんな頃に仏国国師が鎌倉の万寿寺に住していました。
万寿寺はかつて鎌倉にあったお寺で、今は廃寺となってありません。
仏国国師に参じた夢窓国師は、仏国国師から、円覚寺の一山禅師はどのように示されたのかと問われました。
夢窓国師は、「我が宗には語句もなく、一法として人に与うる無し」というばかりでしたと答えます。
そこで仏国国師は、その時にどうして「和尚、漏逗少なからず」と言わないのだと言いました。
漏逗はぼろを出すこと、年をとって老いぼれ役にたたないことを言います。
和尚なんとずいぶんぼろを出しましたなというところです。
そう言われて夢窓国師はハッと気がつくところがありました。
しかし、まだじゅうぶんではありません。
夢窓国師は、自分は本当に大安心の心境に達しなければ、再び仏国国師に見えることはしないと心に誓います。
かくて奥州の白鳥に向かいます。
一山禅師に見え、更に仏国国師に出会って夢窓国師は大成してゆくのであります。
横田南嶺