せぬときの坐禅
そのなかに、
「拝んでいて拝んでいないときがある。
そうかと思えば、拝んでいないで拝んでいることがある。」
という一文があって、心に残りました。
更に読み進めると、
「願わくは拝んでいて拝んでいる姿であると同時に、拝んでいなくとも拝んでいる姿になりたいものである。」
と書かれています。
これは形だけ拝んでいても、心の中では拝んでいないことがあり、形は拝んでいる姿をしていないけれども、心の中では拝んでいることもあるということでしょう。
もう少し考えるならば、形も拝んでいなく、心も拝んでいないこともあるでしょう。
形の上でもしっかり拝んでいて、心でもしっかり拝んでいることもあるでしょう。
この四通りがあるかと思います。
まずは、形の上でも拝んでいて、心でもしっかり拝んでいる状態になるように努力することです。
順番からいうと、まず形も拝んでいなく、心も拝んでいないという日常の状態があります。
そこからまず形の上では拝むようにいたします。
礼拝などの形を学んで形の上では拝むようにします。
しかし、形だけは拝みながら、心の中ではよそのことを考えたりするものです。
そこで心の修練をして、形で拝み、心でもしっかり拝むようにすることです。
そうしますと、形は拝んでいなくても心はしっかり拝んでいるようになれるものでありましょう。
それが「拝んでいなくとも拝んでいる姿」であり、黒住教の教祖黒住宗忠公は「ここが教祖神の御教えになった常祓いの場である」というのでありましょう。
「拝むということは、御神前でお祓いを上げ拍手をすることばかりでなく、いわゆる拝まない姿で拝んでいることがある。」
「それは「腹を立てず、物を苦にせず」「有り難き、また面白き、嬉しき」の三気(三喜)を供えて、生活することであって、これは「誠とも知らでつとむる誠こそ誠の中の誠なりけれ」の歌の如く、拝まないでいて、拝み通しの暮らしということができる。」
となるのでありましょう。
三喜というのは、こんな話であります。
黒住宗忠教祖が布教に出掛けられて、いろいろお祭りに準備をしていました。
いよいよお祭りだというときに、飲みさしの酒ばかりで、お供えにする新しい酒、御神酒(おみき)のないことに気がつきました。
いたって交通の不便なところで、これから買いにゆくのではとうてい間に合いません。
宗忠師は、そのことをお聞きになって、
有りがたき 面白き 嬉しきと
みきをそのうぞ 信(まこと)なりける
と一首和歌をお示しになりました。
そこで、そのままご神前にお供えしてお祭りをお勤めになったという話であります。
行住坐臥、つねに有りがたきという喜
面白きという喜、そして嬉しきという喜の三つの喜を大切にすることが本当の御神酒(おみき)になるのだということです。
更にこんなことが書かれています。
「御神前でお祓いを奉唱していると、いろいろな雑念が湧いてくる。
これでは拝んでもだめだと、そのままやめてはならない。
次々雑念が出てくるのは、雑念が祓われているのである。
だから、ますます元気を出してお祓いを上げ続け、何も考えないようになるまで上げることである。」
と書かれています。
これらのことは皆坐禅にも通じるのであります。
まず形の上でも坐禅していなく、心も散乱したままでいる状態があります。
そこからこれはいけないと思って形だけ坐禅をしても心は散乱したままでいる場合もあります。
更に修練すると、形も坐り、心もしっかり坐って落ち着いてきます。
更に、形は坐っていなくても心はいつも坐った状態のままで動くことができるようになってきます。
よく坐禅しても雑念がわいてしょうがないと言う方がいます。
大森曹玄老師の『驢鞍橋講話』には、
「法然上人の歌だといわれるものに、
妄念のおこらばおこれとうちまかせ
念仏申すが手にて候
とある。
そんなものは相手にしない。
やあ妄念が起こった、やあどうなったと、うろちょろするから妄念が消えないのである。
起こるなら起これ、幾らでも起これ、おれは念仏だと専念すれば自然に消える。」
と説かれています。
更に大森老師は、
「人は同時に二つのことは思えないというのは心理学上の定説である。
それを妄念というものが正念のほかに起こっていると妄想している。
それは時間的な差があるはずだ。
妄念の起こっている時には正念は消えている。
正念の時には妄念は消えている。
これはわれわれの心というものがそういう作用しかできない。
二つのことを同時に思えない。
これは心理学者がはっきり学問的に証明している。」
と説いています。
そして鈴木正三の教えを紹介しています。
「たとえて言うならば、非常に忙しい家にはお客さんが来てもどうも尻が落ち着かなくて、用事だけ述べてそこそこと帰ってしまう。
長っ尻はしない。
隙そうな家だから長っ尻する。
自分の心がひまそうにアッケラカンとしているから、いつまでたっても妄想が尻をすえて、そこを去らない。
真剣にやれば妄念などというものは、またたく間に消えてしまう。」
のであります。
そこで鈴木正三は「縦ひ妄想起るとも、強く勤て取合ずんば、頓て滅すべし。」と説かれてるのであります。
大森老師は「坐禅している時ばかりではない。
朝から晩まで二十四時間、寝ても起きても覚めても、いつでも自分の当面しているところに眼をつけて修すべしである。
われわれは朝から晩まで同じことをしていない。
朝起きて顔を洗う。
やがて朝の食事をする。そして学校に行くなり、お勤めに行くなりする。学校に行けば講義を聞くなり、お勤めに行けば自分の与えられた仕事をする。
その行ずる処に眼をつけて修すべし。
一日二十四時間ある中に三十分ぐらい坐禅して、しかも居眠り坐禅して足を曲げてフンとやっていて何になるか。
そんなものは坐禅にはならない。
朝から晩まで寝れば寝たで坐禅、起きたら起きたで坐禅、いつでも坐禅」だというのです。
これが「正念相続」だと説かれています。
至道無難禅師が
せぬときの坐禅を人のしるならば
なにかほとけのみちへだつらん
と詠われていますが、この正念相続こそが「せぬときの坐禅」なのであります。
それにはまず形の上でしっかり坐ることを身につけておくことが大事であります。
横田南嶺