夢窓国師の人となり
そのご生涯については『夢窓国師語録』にある年譜が詳しいのです。
お生まれになったのが、1275年、建治元年です。
その前の年に、一回目の元寇がありました。
そして建治元年には元からの使者である杜世忠ら来航しました。
鎌倉幕府は、杜世忠らを鎌倉に招き、九月には、杜世忠ら五名を竜口で斬首したのでした。
そんな年に夢窓国師はお生まれになっています。
同じ年に生まれたのは、曹洞宗の峨山韶碩禅師がいらっしゃいます。
『年譜』によると、勢州の源氏、宇多天皇九世の孫とあります。
母は平氏で、男の子を産もうと願って観音さまにお祈りしました。
ある夕べ金色の光がひとすじ西より現れて、口に入るのを夢にみました。
そうして懐胎したのでした。
母は苦痛なく出産したとあります。
母は北条政村の女であるという説もあるそうですが確かではありません。
北条政村といえば、弘長三年(1263年)に五代執権北条時頼が死去し、文永元年(1264年)七月に六代執権北条長時が病で出家したため、当時すでに六十歳だった政村が十四歳の北条時宗が執権になるまでの中継ぎとして七代執権に就任した人であります。
夢窓国師は、後に鎌倉幕府から招かれるのですが、そんなご縁もあったのかもしれません。
弘安元年(一二七八)、夢窓国師が四歳の時に、母方の一族に紛争が起きたので、父は家を挙げて甲斐へ逃れ移りました。
この事情については詳しいことはわかりません。
その年八月、母が亡くなっています。
母の死が一族係争直後の事なので、何か関係があったのかもはっきりしません。
ただそのような家庭の不運が、夢窓国師の出家を促した一因になったのではないかと想像します。
四歳にして、仏像を見れば尊敬せざることなく、口には能く梵経を誦し、目ではお経をよく覚えたので、時の人は「再来の人」なりといったといいます。
資性温粋にして、他の群童等と共に戯れるのを喜ばず、たとえ共に遊戯しても、力をもって諍うことを欲しませんでした。
常に筆を執って書法を学んでいたといいます。
力で争うことを嫌うとか、常に書法を学んでいたというのは、夢窓国師のひととなりをうかがわせます。
玉村竹二先生は『夢窓国師』の中で、
「古来高僧といわれる人には、後天的な世俗の苦悩を経て円成した悟入の境地に到達した人と、先天的に深い宗教的意識を持合せ、環境に恵まれ、世俗的には豊かな生活を送りつつも、何か物足りなさを感じて、宗教に潜入した人がある。
かの永平道元は、貴族の家に生れながら、自ら求めて苦行の道を選んだ。
また、近くは洪川宗温は(今北氏、周防岩国の人、『禅海一瀾』の著者)、既に藩儒として確乎たる世路を踏まえながら、ついに内心の動揺を禅門によって支えざるを得なかった。
これらは、所謂先天的な真性より来るものである。
これらの区分は、截然と分け切ることは出来ないし、いずれにしても、入信の導火線としての、環境的な何物かの変化―悲運――がなければなるまいと思われるが、後天性の人は、その悲運の与える結果が、必ずしも宗教への入信を齎すとのみ限らず、他の方向へ逸脱することもあるのに反して、先天性の人は、ただでさえ、世俗を厭い勝ちであるのに、一旦悲運に遭遇すると、必ず宗教に入る素質をもっている。
この点が前者と大いに異る所である。
この類の人は、悪くすると、「教祖的素質」を持つものと非難される方向へ走る危険も含む性格であるが、宗教家の一のタイプとして見逃せないものである。国師はいずれかといえば、この類に入れらるべき人であろうか。」
と考察されています。
夢窓国師は、弘安六年(一二八三)九歳の時に、父に連れられて、その地の平塩山寺の空阿大徳の許で出家を求められました。
この子は世俗の中にとどまるようには見えません、仏弟子になることを望みますと言っています。
空阿はその非凡の才を愛し、経典のみならず、孔孟老の諸外典を学ばせました。
経典を目にするとたちまちそらんじたというのです。
暗記すれば必ずその意味を尋ねました。
母の七周忌には法華経を誦すること満七日に及びました。
人に勧められるわけでもないのに、十歳の子がこのようなことをなされるとは、神童だといって世の人は感歎したといいます。
十三歳の時に、自ら九相図を書いて璧上にかかげて、常にこれを見ていたといいます。
そうして自分の体をみると、骸骨にほかならないし、他人を見ても屍に見えたというのです。
どんなお化粧をした人を見ても死体を思っていました。
そうして世俗の欲には目もくれずに、一人で木の下など静かなところに坐って心を澄ませていました。
正応五年(一二九二) 十八歳に達した夢窓国師は、既に薙髪していましたが、その叔父に当る内山の明真講師を頼って奈良に赴き、その指示によって、東大寺の戒壇院に登壇受戒しました。
戒師は慈観律師でありました。
そして平塩山寺に帰って、外書伎芸の雑学を廃して、専ら仏書の勉強につとめていました。
この状態は、翌永仁元年までつづき、密教を学ぶかたわら、天台の講義を聴いていました。
しかしここに国師の心境に一大変化をもたらす事がおきました。
この天台の講師が病を得て忙然として寂したのでした。
その臨終があまり感心した様子ではなかったのでした。
夢窓国師は、この講師は平生多聞博学であったが、生死の頃に臨んで、一字もこれを得脱するには用をなさなかったではないかと思いました。
仏法とは義学や機智のよく詣る所のものではない。
聞く所によると、世に禅宗という宗旨があり、その宗派では、教外別伝、不立文字といって、経典文言に拘わらないで、釈尊より、以心伝心して相承して来た別伝の旨があるというが、大いに関心を持つべき所以があるのではないかとと考えました。
かくして夢窓国師は、禅の教えを学ぶようになるのです。
横田南嶺