それぞれの職業に勤しむ
禅の問答に「治生産業皆実相と相違背せず」という言葉が出てきます。
雲門禅師は、法華経の言葉として使っていますが、実際には法華経にこの通りの言葉はありません。
「治生」とは、暮らしを立てることであり、生業を上手にやりくりすることを言います。
「産業」は、今でもよく使われる言葉ですが、元来は「生きるための仕事。生業。なりわい。」という意味です。
ですから、「治生産業」とは、暮らしを立てるために、仕事をすることを表す言葉です。
「治生産業皆実相と相違背せず」とは、あらゆる世渡りや労働は、真実の姿に背くものではないという意味です。
この言葉は天台大師の書かれた『法華玄義』に出ています。
『法華経』の「法師功徳品」には、
「若し俗間の経書、治世の語言、資生の業等を説かんも、皆正法に順ぜん」という言葉があります。
「俗世間にまつわる著作や言行録について、政治経済にまつわる理論や目的について、生きていくための仕事などについて、どれを説いても、なにひとつとして正法にそむくことはないでしょう。」
という意味です。
そこで、禅の公案としては、悟りの頂点に止まることなく、「治生産業」という実人生の暮らしをしながら、敢えてそこで人々の為に働くことが真実の道にかなうのだと説くのであります。
江戸時代には「四民」という身分制がありました。
「士・農・工・商」の四つであります。
それぞれどの身分であってもその仕事に打ち込むことが仏道そのものだと説いたのが鈴木正三でした。
『万民徳用』には「四民日用」という一章があって、そこには「武士日用」「農人日用」「職人日用」「商人日用」ということが説かれています。
仏法による生き方をそれぞれの暮らしに合わせて具体的に説かれています。
これが、中村元先生が指摘された「世俗的な生活のうちに仏道修行を実現しようとする」ことであり、「いかなる職業も絶対者の顕現なのである。絶対者である唯一の究極の仏の顕現であるという点において、いかなる職業も神聖であるということになる。」(『近世日本の批判的精神 中村元選集第七巻』第一編「鈴木正三の宗教改革精神」)という姿なのであります。
『驢鞍橋』巻上百七には
「或る日、或る侍に示して言われた。「始めから忙しい中で坐禅を仕習うのが良い。特に侍は、猊波の中に用いる坐禅を仕習わなければならない。鉄砲をバタバタと打ち立て、互いに鑓先を揃えてワッワッと言って乱れあう中で、キッと用いてここで使うことである。
どうして、静かな所を好む坐禅が、このような所(合戦の場)で使われるだろうか。およそ、侍はどれほど良い仏法であっても鬨の声の中で用に立たないことならば捨てるのが良い。だから、常に二王心を守り習う以外無い。」
という教えがあります。
『万民徳用』にある「武士日用」には、
「武士が質問して言う。「仏法と世法は車の両輪のようなものだといいます。しかし、仏法が無くても、世間に何らかの不足が出ることはないのではないでしょうか。どうして車の両輪に例えるのでしょうか。」
答えて言う。「仏法と世法は二つの別々のものではない。仏の言葉に『世間に入り得れば、世間を離れる必要はない』と言っている。
仏法も世法も道理を正し、道義を行って、正直の道を用いる以外には何もない。
[ただ] 正直というのに浅い意味と深い意味が有る。道理を曲げず、道義を守って、五倫の道を正しくして、物に違わず、私心が無いことを世間の正直という。
これは浅い所から深い所へと入る道である。
又、仏法の正直というのは、一切の有為法(因縁によって形成された一切の物事)は虚妄で幻のような実体のない偽物であると悟って、本来備わる法身を天然に自性のままに用いることを真実の正直という。
そもそも、凡夫は大病人であり、仏は優れた医者である。
凡夫はまず[自分が] 病人であることを知るべきである。
生死 (生まれては死ぬことを繰り返す迷いの姿に関する道理)を明らかに知らない凡夫の心の中には、顛倒(煩悩の為に誤まった考え方や在り方をすること)による迷妄の病が有る。
慳貪欲張り・邪な偏見などの病が有り、臆病・弱虫による不道義という病がある。
又、三毒(貪欲・瞋恚・愚痴)の心を根本として、八万四千の煩悩の病が生じる。
この心を除き滅するのが仏法であるから、まさにこれは世法と異なるまい。」
と説かれています。
現代語訳は中公クラシックス『鈴木正三 鈴木正三著作集Ⅱ』にある加藤みち子さんのものです
「農人日用」には、
「そもそも農人と生を受けることは天から授けられた、世間を養育するという役割を果たす役分である。
だから、この身を一筋に天道にお任せし、仮にも自身の為を思わずに正しく天道に対する奉公として農人の為すべき仕事を為せばよい。
すなわち五穀を作り出し仏や神々をお祭りし、万民の命を助け、虫類等に至るまで施すべしという大誓願を立てよ。そして、一鍬耕すごとに南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と唱え、一度鎌を振るごとに念仏信心が有って一念たりとも怠らないようにせよ。
勇猛で堅固な心に留まって農人の仕事を為すならば、田畑も清浄の地となり、五穀も清浄の食べ物となって、食べる人が煩悩を消滅する薬になるだろう。
天道がこの人を守護しないことがあろうか。」
と説かれています。
このようにそれぞれの職分に励むことこそが仏道だと説かれたのでした。
横田南嶺