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臨済宗大本山 円覚寺

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2024.07.16
今日の言葉

ただ礼拝するのみ

日本の禅宗は、ただいま曹洞宗、臨済宗と黄檗宗という三つがございます。

黄檗宗について、岩波書店の『仏教辞典』には、

「禅宗の一派。京都府宇治市の黄檗山万福寺(まんぷくじ)を本山とし、江戸初期に来日した隠元隆琦(いんげんりゅうき)を開祖とする。

教義・修行・儀礼・布教など日本臨済宗と異ならず、<黄檗宗>の名も明治政府の宗教政策で臨済宗より独立させられたもの。

日本臨済宗の各派が、鎌倉より室町中期にかけて宋と元の中国禅を受け入れ、早く日本化したのに比して、隠元の来日が新しい上に、明末清初の国粋化運動のもとで意図的に中国禅の正統を自任し、臨済正宗を名乗ったことから、独自の宗風を生むこととなる。」

と解説されています。

また『宗学概論』には、

「明末に来朝した隠元とその弟子たちは、 持律を重視し、法要行事に念仏をまじえた当時の中国風の禅を将来するが、隠元の禅は、密雲・費隠の流れを汲む棒喝禅であり、その墨蹟の関防印に 「臨済正宗」の文字を用いていたことからも知られるように、臨済禅の正系としての高い自負心に裏付けされていた。」

と説かれています。

同じ臨済の禅の教えであることには違いはないのであります。

もっとも臨済禅師の師匠が黄檗禅師なのであります。

黄檗禅師のことについては、『碧巌録』の第十一則に少し説かれているところがあります。

まず「黄檗禅師は身長七尺、ひたいに円珠があり、生まれながらに禅を会得していた」と書かれています。

七尺というと実に大柄な方だったと分かります。

生まれながらに禅を会得するというのは「天性禅を会す」と説かれいるのであります。

そんな黄檗禅師が師となる百丈禅師を訪ねた時のことが詳しく書かれています。

岩波書店の『現代語訳 碧巌録』から末木文美士先生の訳を引用します。

「(黄檗が)百丈懐海のもとに着くや、百丈が尋ねた、

「威風堂々としている。どこから来たのか」。

黄檗「威風堂々と嶺中(福建)から来ました」。

百丈「来たのは、何のためか」。

黄檗「他の用ではありません」。

百丈は心から法を嗣ぐに足る人物と認めた。

翌日、百丈に別れを告げた。

百丈「どこへ行くのか」。

黄檗「江西へ、馬大師を礼拝しに行きます」。

百丈「馬大師は、既に亡くなったぞ」。

さて、黄檗がこのように問うたのは、知っていて問うたのか、それとも知らずに問うたのであろうか。」

と書かれています。

今の時代なら、すぐに情報が伝わりますが、昔のことですから、馬祖禅師がお亡くなりになっていたことが分かっていたのかったのでした。

『祖堂集』には臨済禅師について書かれているところで、黄檗禅師は、大愚禅師とともに馬祖のもとで修行していたと説かれていますが、ここでは馬祖禅師には会えていないことになっています。

そこで黄檗禅師は、

「私がわざわざ礼拝しに行こうとしているのに、福縁が薄く、一度もお目にかかれませんでした。

(馬祖は)平生、どんなことをおっしゃっていたのでしょうか。どうかお聞かせください」。」

と百丈禅師にお願いしました。

百丈禅師は、そこで黄檗禅師に対して、自分が馬祖のもとに参じた時のことを話しています。

百丈禅師は、修行時代に馬祖禅師から一喝されて、三日間耳が聞こえなくなっていたのでした。

その話を聞いて黄檗禅師は、思わずゾッとして舌を出しました。

百丈禅師から「君はこれから馬祖大師を嗣ぐのではないか」と問われて、

黄檗禅師は「違います。今日、老師のお話によって、馬祖大師のごりっぱな言動を見ることができました。

もし馬祖を嗣いだとしたら、いつの日か、自分の法を嗣ぐ子や孫を失うでしょう」と答えたのでした。

唐の憲宗には二人の皇子がおり、それぞれ穆宗、宣宗といいました。

その宣宗が、大中と言います。

武宗の時代になって、大中はこっそり逃れて、香厳智閑和尚の門下に居ました。

『碧巌録』には

「後に、智閑と共に行脚して廬山に着いた。その時、智閑が瀑布に題する詩を詠んだ、

雲を穿ち石を透り、苦労を辞さぬ。

遠くにあってこそ、高い処から出ていることが分かる。

智閑はこの二句を吟詠すると、立ち止まってしばらく考えこんでいた。

大中の唱和を引き出して、どう思っているのか、見てとろうとしていた。

大中は続けて詠んだ、

渓流はジッとおし留めることなどできようか。

結局は大海に注ぎ、大波となるのだ。

智閑は並の人ではないと分かったので、黙って了解した。

後に塩官(斉安)の門下に入った。大中に書記になってもらった。

黄檗は、そこで首座となっていた。」

と書かれています。

そこでこんな話が伝わっています。

「黄檗がある日、仏を礼拝した時、大中が見て質問した、

「仏に求めず、法に求めず、衆僧に求めず。礼拝していったい何を求めているのですか」。

黄檗「仏に求めず、法に求めず、衆僧に求めず。いつもこのように礼拝する」。

大中「礼拝して何になります」。黄檗はビンタをくれた。

大中「なんと乱暴な」。

黄檗「ここをどこと心得て、乱暴だの丁寧だのと言うのか」。

黄檗はまたもやビンタをくれた。

大中は、後に(八四七年)国位を継ぎ、黄檗に「麤行沙門」という称号を下賜した。」
と書かれています。

「仏に著いて求めず、法に著いて求めず、僧に著いて求めず」というのは、『維摩経』にある言葉です。

なにものも求めることはしなけれどもただこうして礼拝するのみというのは、素晴らしいはたらきなのであります。

「仏に著いて求めず、法に著いて求めず、僧に著いて求めず、常に礼すること是の如し」というのであります。

黄檗禅師の実に尊いところなのであります。

 
横田南嶺

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