虎のひげ
黄檗希運禅師と申します。
この方の生没年ははっきりしていません。
閩の人と『景徳伝灯録』に書かれています。
今の福建省閩侯県にあたるようです。
伝灯録には、幼くして黄檗山で出家したと書かれています。
額の間が隆起してこぶのようになっていたようです。
天台山に行った頃、一人の僧と親しくなりました。
ともに山の中を歩いていると、溪がありました。
激しく水が流れています、
そこで笠をとって杖を立てて立ち止まりました。
その僧が黄檗を連れて渡ろうとします。
黄檗は、君が自分で渡るといいと言いました。
僧は衣の裾をからげてまるで平地を歩くように水の上を歩いてゆきます。
そうして黄檗に向かって、渡って来い、渡って来いと誘います。
黄檗は、「自分だけが悟ってよしとしているような者だ、こんな者だと分かっていれば、すねを切ってしまったものを」と言いました。
その僧は、黄檗に向かって「あなたは大乗の教えを受け継ぐに足る器です。私の及ぶところではない」と言って見えなくなってしまいました。
黄檗禅師の著書である『伝心法要』については、筑摩書房の『禅の語録8伝心法要 宛陵録』があります。
その中にある入矢義高先生の解説に、黄檗禅師の修行時代の話が『祖堂集』から説かれています。
「あるとき乞食して、とある門の前を進みつつ、「どうか、あり合わせの食を頂きたい(家常)」 ととなえた。
門のあたりで一老婆が言った、「和尚はひどい欲ばりだね。」
かれは、その言葉をきいて不思議に思い、その意を探ってみようとした。
「飯もまだ与えないで、どうして欲ばりだなどと批評するのだ。」
老婆は言った、「ほかならぬそれが欲ばりではありませんかな。」
かれはそれを聞くと立ちどまり、にっこりと微笑んだ。
老婆は、かれの体つきが堂々としていて、普通の僧と異っているのを見ると、とにかく内に入れ、食事を供養し、かれが喰べ終ると、その参学の経歴をただした。
かれは隠すことができず、自分の見識をあらわした。
老婆は耳に口を近づけ、さらに微妙の法門を教えた。
かれは、神秘の門ががらりと開かれるのを覚え、かさねて謝辞を述べ、師として仕えようとした。」
と書かれています。
ある老婆から学んで気がつくところがあったようなのです。
そのまま老婆に師事しようとしたのですが、老婆が自分はそんな器ではないと伝えました。
そして「江西に百丈大師という方がおられ、禅林のすぐれた指導者として、群峰の中に抜け出ておられると聞いています。
あなたは、そこに行って参承なさるがよろしい。
ただお願いしたいのは、将来かならず人天の師となられたとき、後輩を軽んじないように心して頂きたいということです。」
と伝えました。
そこで百丈禅師のもとに修行に行ったのでした。
百丈禅師からも讃えられるほどの境地に到ったのでした。
あるときに、百丈禅師は黄檗禅師に、どこに行ってきたのかと聞きました。
黄檗禅師は、大雄山でキノコを採りに行ってきたと答えます。
百丈禅師は、虎に逢わなかったかと聞きます。
黄檗禅師は、そこで虎の鳴き声をしました。
百丈禅師は、斧を持って切るような格好をしました。
黄檗禅師は百丈禅師を一打ちしたのでした。
百丈禅師は、呵呵大笑してお部屋に帰りました。
そのあと、上堂して言いました。
大雄山に一頭の虎がいるぞ、みなよく気をつけよ、私は今日がぶりと噛まれてしまったと言ったのでした。
若き黄檗禅師は、師の百丈禅師を凌駕するような気概を持っていたことが分かります。
その黄檗禅師のもとから臨済禅師が出たのでした。
臨済禅師は、黄檗禅師のもとに修行して三度、仏法の根本義について質問して三度打たれてしまいました。
これはとてもこの禅師のもとではダメだと思って暇乞いをしたのでした。
黄檗禅師は、大愚和尚のもとにゆくように指示しました。
臨済禅師は、大愚和尚のところに行って、自分にいったい何の落ち度が有ったのでしょうかと聞きました。
大愚和尚は、三度質問して三度打った黄檗禅師のことを、なんと老婆心切で、あなたの為にくたくたになるまで導いてくれていたのかと言いました。
それを聞いて臨済禅師もハッと気がついたのでした。
そこで、黄檗禅師の仏法は実に端的そのものだったと分かったのでした。
そうして黄檗禅師のもとに帰りました。
黄檗山と大愚和尚のおられたところは五十キロほど離れた距離ですので、若い臨済禅師なら二日ほどで歩いたと思います。
帰ってくると、黄檗禅師から、行ったり来たりうろついていてどうするのかと問われました。
臨済禅師は、和尚の親切なお導きのおかげですと答えます。
大愚和尚のもとでのいきさつを話しました。
黄檗禅師は、こんど逢ったら一発くらわしてあげると言いました。
すると臨済禅師は、今すぐくらえと言って、黄檗禅師に平手打ちを食らわせたのでした。
黄檗禅師は、「この呆け者め、ここに来て虎のヒゲをしごくとは」と言いました。
若い日には、師の百丈禅師を打つほどの黄檗禅師でした。
かつて虎になりきっていた黄檗禅師が、今度はもう若き臨済禅師から、その虎のヒゲをしごかれるようになっていたのでした。
馬祖から百丈、百丈から黄檗、黄檗から臨済へと、かくして伝統が受け継がれていったのでした。
横田南嶺