目を開いて坐る
坐禅中は目を閉じません。
目を開いて坐ります。
『坐禅儀』という書物には、
「目は須らく微しく開いて昏睡を致すことを免れるべし。若し禅定を得れば、其の力最も勝る。古え習定の高僧有り、坐して常に目を開く。向の法雲の円通禅師も、亦た人の目を閉じて坐禅するを訶して、以て黒山の鬼窟と謂えり。蓋し深旨有り。達者これを知るべし。」
と書かれています。
訳しますと、
「目は半眼に開いて居眠りをしないようにすることが大切である。
こうして禅定の境地に入ることができるとき、その効果は最高である。
昔ある高僧が禅定に入るのに、いつも目を開いていたという。
ちかごろ東京法雲寺の円通禅師も、目を閉じて坐禅するのを叱って、地獄の洞穴坐禅だといわれている。
大いに意味のある言葉で、道を得た人にして、はじめて言えることだ。」
ということです。
これほど強調されているので、目を閉じないことには大きな意味があるのです。
藤田一照さんは、半眼について、
「坐禅ではよく「半眼」ということが言われるが、情報をとらえに行こうとする緊張した普段眼の状態のままで「半眼を作る」のではない。
現れる対象の情報がやってくるままにそれを迎え入れるくつろいだ眼を外から見ると「半眼になっている」のである。」と仰っています。(web春秋 はるとあき 坐禅の割稽古 試論)
私はいつも日曜説教や法話会などで、はじめにしばし目を閉じて感謝するということをしています。
これは、やはり何と言っても短時間だからです。
今まで外のものばかりに目をとられていたのを、切り替える為に、ほんのしばし目を閉じてみるだけなのです。
そして生まれたことの不思議や、今日まで生きてこられたことの不思議、今日ここでめぐりあえたことの不思議に感謝をするのです。
ある程度の時間坐禅をするには、必ず目を閉じないようにします。
目を閉じると体はどうしても不安定になります。
体が不安定になると、心もまた落ち着かないものです。
先日甲野陽紀先生にお越しいただいて身体の使い方について学んでいました。
毎回毎回驚きの講座なのですが、今回も実に驚きでありました。
目を閉じると目を瞑るとでは、身体の安定感が全然違うのです。
目を閉じると体は不安定になります。
目を瞑るでは体は安定しているのです。
単なる言葉の違いのようですが、これが大きな違いがあるから驚きなのです。
目を瞑るというのは、まぶたを閉じるということだというのです。
まぶたを閉じると目を閉じるとでは違うというのです。
まぶたを閉じるというのは、視覚を閉ざしているだけで、体の内部は生きて活動しているのです。
あたかもお店のシャッターだけを閉じてお店の中はまだ動いている状態だということです。
目を閉じるというのは、お店が全部閉店になったようなものだというのです。
目を閉じてしまうと、外に向き合う機能がなくなってしまうのでしょう。
大森曹玄老師の『驢鞍橋講話』には果たし眼の坐禅ということが説かれています。
『驢鞍橋』の本文には、
「爰を以て、果し眼と云事を云出して、人に授る也。」
と説かれていて、大森老師が、
「そこで自分は果たし眼ということを言い出して人に授けた。
果たし眼の坐禅。自分でやってみるがいい。
真剣勝負をする時のように、果たし眼でグと相手を睨みつける、そういう気合いで坐禅をやってみるがいい。」
「正三道人は果たし眼の坐禅ということを言う。
坐禅をして、のらりくらりしていたのでは致し方がない。
それこそ足の爪先から髪の毛の先まで機が充実して、原田祖岳老師は、「ゆったりと、どっしりと、しかも凜然と、富士山が東海の天に突っ立ったようにスーッとやれ、それが坐禅というものだ」と常に言われた。
それを正三道人は果たし眼の坐禅と言う。」
と講話されています。
「果たし眼」というのは『広辞苑』には、
「相手を打ち果たそうとする決死の目つき」のことだと解説されています。
鈴木正三は、『驢鞍橋』の中で、目をすえるということを何度も説かれています。
目をすえるとは「視線を動かさず、じっと見つめる」ことだと『広辞苑』には解説されています。
二王禅として「もし私の考える仏法に入ろうと思う人は、気力をひき立て、眼をすえ、二王不動が悪魔を降伏する形像の気質を受け、二王の心をしっかり持って、自己の悪業煩悩を滅すべし。」
と説かれていますし、
読経の時にも、
「ある日、誦経の時にこう言われた。
「体をすっくと正しくたもち、禅機を臍の下(丹田)に落ちつけ、眼をしっかりすえて誦経せよ。
このようにすれば、誦経をすることによって禅定に入る機を修し出すことができよう。ぼんやりして誦経したのでは、功徳にもならないであろう」」
というのであります。
果たし眼というと随分過激のように聞こえますが、しっかり目を開いて坐るようにということであります。
とろんとした死んだような眼ではダメなのであります。
しっかり、目を開いて見るということが、物事に真剣に取り組むことにも通じるのであります。
横田南嶺