ときのこえ
「そこで、何ものにも動かされないぞと言って、果たし眼で目をすえて坐禅をした、そういうふうにして確かに禅定の機というものを会得した。
そこで初めて禅定というものの働きを知ったという。
「然る間、各々も六具をしめ、大小十文字に指働らかし、八幡と云て、ねじ廻し、睨み付て、坐禅を仕習ひめされよ。」
そういうことであるから、皆さんも六具をしめ、六具というのは鎧と太刀、采配、それから鞭、軍扇、そういうものを六具という。
つまり戦陣用の武具でがっちりと固めて、大小十文字に指働かし、大小、大きい刀小さい刀を十文字に差して、そして八幡と言ってねじ廻し、睨み付けて、坐禅を仕習いめされよ。
鎧兜をつけて、大小を差して、南無八幡と言って、きっと睨みつけて坐禅を仕習いめされよ。
「古具足有ば、御坊主達にも着せて、坐禅仕習せたし。」
もし古い鎧兜があるならば、坊さんたちにもそれを着せて坐禅をやらせたいものだ、こう言っている。
坊主たちが居眠り半分にヘラヘラ坐禅をしていたところで、生死を超えるのには何の役にも立たない。
やはり古具足、武具をつけて、戦場に臨むような、必死三昧で坐る以外にはない。
そういう坐禅をさせてみたいものだ、と正三道人は強調する。
「何とだらついた坊主の心なりとも、」 何とだらけ切って、腐ったような坊主の心なりとも、「六具鎧大小十文字に指たらば、其儘、心は替べしと也。」
幾らぐらついたダラケ坊主でも、具足を身につけ、大小を差して武装したならば、心は変わるであろう。
はっきりと張り切った心になることだろう。」
というのであります。
関ヶ原の合戦、大坂冬の陣、夏の陣に参戦して出家した鈴木正三ならではの言葉であります。
それだけに、こういう言葉も遺されています。
こちらは、『日本の禅語録十四 正三』から引用します。
現代語訳は古田紹欽先生のものです。
「ある日、ある修行者がやってきて、仏道修行の方法を尋ねた。
師匠はこう教えられた。
「万事をさしおいて、ただ死ぬことを習いなさい。
常に死ぬことを習って、死ということがよくわかって、本当に死ぬ時、驚かぬようにしなさい。
人を救い、道理を分けて考える時にこそ智恵は必要だが、自分の成仏のためには、何でも知ったものは仇となるものだ。 分別をやめ、ただ念仏することだけで死ぬことを習いなさい」
という教えであります。
こういうことも鈴木正三の教えの特徴であります。
それから「ときのこえ」坐禅というのも説かれています。
「ときのこえ」の「とき」というのは、「鯨波」とも書きます。
『広辞苑』には、
「合戦の初めに全軍で発する叫び声。
味方の士気を鼓舞すると共に、敵に向かって戦いの開始を告げる合図としたもの。
敵味方相互に発し合い、大将が「えいえい」と2声発すると、一同が「おう」と声をあげて合わせ、3度繰り返すのを通例とした。」
というものです。
『驢鞍橋』巻下百十に、
「一日去処にて示曰、仏法と云は万事に使ふ事也。殊に武士は鯢波坐禅を用べしと云て、自ら鯢波を作給。其座に不三有、ひしと此機を受。師、後に其意を聞て肯之。」
とあります。
訳しますと、
「ある日ある所で、「仏法というのは万事に使うことである。ことに武士は鯢波坐禅をなすべし」と言って、自ら鯢波をなさった。
その座に不三がいたが、ひっしとこの気質を受けた。
師匠は、後に其の心意を聞いてこれを印可肯定された。」
と書かれています。
果たし眼の坐禅といい、ときの声坐禅といい、いかにも武士らしい禅風であります。
また浮かぶ心を大切にして、沈む心を嫌われていました。
どんなのが沈む心で、どんなのが浮かぶ心なのか『驢鞍橋』には次のように説かれています。
「浮かぶ心と沈む心を分かち得るのは理(理論)である。
この理を知って、日夜、常に浮かぶ心を用いるのは義(条理実践) である。
まず喜ぶ心・怒る心・憂える心・物思う心・悲しむ心・恐るる心・驚く心、この七つの心は自我のとらわれによっておこるものである。
また痛む心・煩う心・悩む心・苦しむ心・偽る心・諂う心・恨む心・嫉む心・是非の心・世間の名声にとらわれる心・自慢の心・とらわれる心・願い求める心・ものをすき好む心・ものを願う心・貪欲の心・愚かな心、これらの心はすべて沈む心であって、真っ暗な無知の迷いの中からおこるものである。
故に沈む心を用いる時、ただいま出でて死ねといったならば、苦しみ煩うことが強いであろう。
また、浮かぶ心の種類がある。
仏や神を敬う心・主人の前に坐っている時の心・礼儀正しい出会いの時の心・慈悲あり正しくすなおな心・仁義を守る心・自己の本分を守る心・生と死をよく見極める心・戦陣にのぞむ心・身を捨てて仏道に励む心・無常を観ずる心・念仏を唱える心・経典や真言陀羅尼を誦する心・仏陀の教説や祖師の言葉に注目し究明する心・公案を工夫し、聖胎を長養し、坐禅する心・すべて悟りを得るために実践修行に励む心、これが浮かぶ心であって、これはあらゆる苦に勝つ坐禅、すなわち身心を滅却して安楽を生ずる安楽の法門である。」
というところであります。
二王様や不動明王のような気迫で、この沈む心を撃退して、果たし眼やときの声をあげるような気迫で浮かぶ心をもって修行するのが鈴木正三の教えなのであります。
横田南嶺