浅草の観音さま
浅草寺仏教文化講座の講演に招かれたのでした。
古くから行われている講座で、今回でなんと八一八回目であります。
毎月2人の講師を招いて講座を開かれているのでした。
会場は浅草寺ではなく、明治安田生命ホール丸の内というところでした。
控え室につくと、浅草寺教化部の清水谷尚順先生にご挨拶させていただきました。
長く続く文化講座で、常連の方が多いということでした。
とても素晴らしい会場だったので、話す方も話しやすかったものです。
マイクや音響のいいところは、とても楽であります。
観音様を信仰している私にとっては、浅草寺さまからお招きいただけるというのは感激であります。
数年前に京都の清水寺からもお招きいただいてお話させてもらったことがありました。
これで東京の浅草の観音様からもお声をかけていただいたので、もうこれ以上のよろこびはありません。
浅草寺については、当日いただいた『浅草寺』という浅草寺で発行されている本に詳しく書かれています。
浅草寺そもそもの興りについて、次のように書かれています。
いただいた本『浅草寺』から引用させてもらいます。
「浅草寺は、千四百年近い歴史をもつ観音霊場である。
寺伝によると、ご本尊がお姿を現されたのは、飛鳥時代、推古天皇三十六年 (六二八) 三月十八日の早朝であった。
宮戸川(今の隅田川)のほとりに住む檜前浜成(ひのくまのはまなり)・竹成兄弟が漁をしている最中、投網の中に一躰の像を発見した。
まだ仏像のことをよく知らなかった浜成・竹成兄弟は、像を水中に投じ、場所を変えて何度か網を打った。
しかしそのたびに尊像が網にかかるばかりで、魚は捕れなかったので兄弟はこの尊像を持ち帰った。
土師中知(はじのなかとも)(名前には諸説あり)という土地の長に見てもらうと、聖観世音菩薩の尊像だとわかった。
そして翌十九日の朝、里の草刈り童子たちが藜でつくった草堂にこの観音さまをお祀りした。
「御名を称えて一心に願い事をすれば、必ず功徳をお授けくださる仏さまである」と、浜成・竹成兄弟や近隣の人びとに語り聞かせた中知は、やがて私宅を寺に改め、観音さまの礼拝供養に生涯を捧げた。」
というのであります。
西暦六二四年というのですから古い古い歴史であります。
もうあと四年で開創一六〇〇年になるのです。
長い歴史の中多くの方によって護られてきた信仰のお寺であります。
いただいた本『浅草寺』には、
「慶安二年(一六四九) の再建以後およそ三百年の間、浅草寺の本堂は不思議と火事を免れてきた。
江戸時代の文献には、火が至近になると雨が降る、あるいは風向きが変わるなどの霊験が再三起きたと記されている。
大正時代の関東大震災でも奇跡的に火難から逃れ、境内に五万人もの人が避難して救われたという。
しかし、昭和二十年(一九四五) 三月十日未明の東京大空襲では、人間の愚かさをお示しするかのごとく諸堂伽藍もろとも本堂が烏有に帰した。」
というのです。
慶安二年に徳川家光が願主となって再建されたのだそうです。
国宝に指定されていた建物だったのです。
そんな本堂が、戦争で燃えてしまったのでした。
それでも戦後復興なされました。
これもいただいた本によると、
「新本堂は、昭和二十六年(一九五一)に起工。
天皇陛下より金一封を拝領し、信徒の熱意あふれる協力も得て、 七年後の昭和三十三年(一九五八)、無事に落成を見た。
また昭和三十五年(一九六○)には、慶応元年(一八六五)の焼失以来九十五年ぶりに雷門が再建された。
開創以来今日まで千四百年の長きにわたり、浅草寺は多くの庶民の信仰心に支えられてきた。
そして現在、日本全国は言うまでもなく、世界の各国からも、年間延べ約三千万人もの人びとが参拝に訪れている」
というのであります。
三千万人というのですから、想像を絶する数であります。
浅草寺さまのご本尊は絶対秘仏といって、開帳されることがないのです。
ですから誰もそのお姿を拝んだことはないと言われています。
一般には「一寸八分(約5.5センチ)の金色の像」と伝えられていまが、それは俗説だと教わりました。
いただいた本『浅草寺』には、
「火災が多発した江戸時代、大火の際は必ず、非常用のお輿にご本尊と御前立を奉安し、安全な方向の寺院に向けてご避難した。
そして鎮火を確認すると、一刻の猶予もおかず本堂へご帰座していただくことが慣例であった。
護衛には、寺の開創以来仕えている土師氏と檜前兄弟の子孫三人、寺侍数名など十人近くの人が当たった。
また、どれほど混雑していても、浅草観音のご避難とわかれば道は開かれ、通り抜けられたという。
東京大空襲のとき、ご本尊は前もって本堂の真下、地中約三メートルのところに埋めた青銅製天水鉢の中に安置されていた。
これにより本堂焼失にもかかわらずご本尊はご安泰であった。」
というのであります。
御前立の観音さまも滅多に開帳されないということでした。
お姿を拝むことができないのですが、それでも何千万人もの人がお参りするのですから、その霊験あらたかなことはいうまでもありません。
浅草の観音さまとご縁をいただいて、感慨無量なのであります。
横田南嶺