大用国師の人となり
逸話を学ぶことの良さであります。
誠拙周樗禅師、大用国師には逸話がたくさん残されています。
三歳で父を亡くして、母安子はその時三十二歳でした。
母と子二人の生活は経済的に苦しかっただろうと察します。
大用国師がまだ四,五歳の頃に、母は再婚して半農半魚の村、 家串の藤井平兵衛のもとに再嫁しました。
やがて新しい夫平兵衛との間に平蔵という男の子が生まれました。
大用国師の義理の弟にあたります。
そんな家庭の事情もあって、母はまだ七歳の大用国師を宇和島仏海寺霊印和尚に預け、出家させたのでした。
七歳から一六歳まで、このお寺で育ちました。
殿様の頭を打つほどですから、気丈な子であったことがわかります。
また季刊『禅文化』六〇号「誠拙禅師特集」に掲載されている朝比奈宗源老師の文章には、こんな逸話も書かれいてます。
「その位で誠拙さんにはやんちゃなところがあり、朝ねむいところを起こされると、ともかく寺ではまっさきに本堂の半鐘を鳴らさなくてはならないので、いそいで本堂の縁側へいき、片手で半鐘をヂャンヂャンと鳴らしながら、片手で着物の前をまくって椽側から下へシャアシャアとやったという活撥な話は、小僧の私たちには身近な小英雄の行為のように思えて、とてもうれしかった。」
というのであります。
とてもまねしていいものではありませんが、「やんちゃ」な一面がよく現われています。
こんな逸話が残されていることから察しますと、従順でおとなしい模範的な小僧というよりも、師匠のことなどあまり聞かない気の強い方であったように思います。
それも、やはりそんな家庭の事情でお寺に入れられた経緯も関わっているかと思います。
師匠である霊印和尚からはよくお叱りを受けていたようであります。
そんな我が子が心配で母も時折、家串から宇和島仏海寺まで来て、 「和尚さんの言うことをよくきくのですよ」といさめ、さとしたのだろうと察します。
そんな気丈夫なご性格だったからこそ、厳しい禅の修行もやり遂げられたのでしょう。
禅文化研究所発行の『禅門逸話集成』第一巻にはこんな話があります
「諸方行脚に出た誠拙は、その当時、道声の高かった月船和尚に参じようとて永田の宝林寺に行った。
折しも月船は不在で一僧が出てきて、掛塔を乞うたが、許されない。
門宿を頼んでみたが、これも許されない。
ちょうど雨も降ってきたので、仕方なく誠拙は合羽を着て永田山を下りてゆくと、地蔵堂があったので、これを幸いと地蔵堂の中に入って、遠慮もなく石地蔵の頭に腰をかけて、ぐうぐうと眠りこんだのである。
すると、たまたま外から戻ってきた月船和尚がこれを目にして、誠拙の凡ならざる器を見抜き、ついに掛塔を許したのである。」
これくらいの気概があるからこそ、後に荒れていた円覚寺に僧堂を再興さるという偉業も成し遂げられたのでしょう。
気丈夫なご性格の反面お優しい面もございます。
晩年になって小僧時代の母の思い出を詠んだ歌が残されています。
おとづれていさめ給ひし言の葉のふかき恵みをくみて泣きけり
という和歌です。
もう七十歳にもなる大禅師が、小僧時代に度々寺を訪ねてきて、自分のことをいさめてくれた亡き母の言葉を思い出しているのです。
そして、その深い母の愛情に涙を流している和歌です。
母のおられた家串から宇和島までは二〇キロもあります。
そんな道のりを歩いて、お寺までやってきては、「辛抱するのですよ、和尚さんのいうことを聞きなさいよ」といさめてくれた母を思いおこしているのです。
こんな和歌もあります。
子をすてし親の心をわすれなば奈落は袈裟の下にこそあれ
可愛いわが子を一人出家させた、その親のかなしみを忘れたら地獄に落ちるぞ、と自分自身に言いきかせているのです。
母は長生きされて、なんとあの時代に九九歳という長命でありました。
八八歳のお祝いには、宇和島で行けないので使いの僧を出してお祝いを届けさせています。
そして母が亡くなったあと、大用国師は、その母の菩提の為に、西国三十三ヵ所の札所を巡礼するのです。
七〇歳の秋から明くる年の春まで三十三の札所を廻っておられます。
たらちねの長き別れの手向けにはいやつつしまん我身ひとつを
これは西国三十三所巡礼の途上で詠まれた歌です。
母の死後、自分は僧としてこれからもわが身を慎んでいくことを誓っているのです。
それから大用国師がお亡くなりになる時の話もございます。
臨終の間際、義弟平蔵をはるばる宇和島から京都まで呼び寄せています。
「ワシは平蔵と会ってから死ぬ」と言われたそうなのです。
平蔵の姿をみると「平蔵か、よう来てくれた。裸になれ、暑かったろ」と、平蔵を自分の病牀中に入れ、抱きしめて
「平蔵や、ワシはこれで満足した」と語りかけ、そのあと病に痩せ衰えた身を起こし、法衣を着て経を誦みながら遷化したという逸話が残されています。
三歳で父を亡くして、七歳で母と別れて寺に預けられ、そんな不遇な環境にもめげずに大成されたのでした。
しかし、七十を超えても母のために西国三十三ヵ所の札所を巡礼し、そして臨終には、義理の弟を呼びよせて別れをするところなどには、暖かい情が感じられるのであります。
そんな愛情があればこそ、多くの修行僧を指導することもできたのだと思います。
大用国師の人となりをうかがわせる逸話であります。
横田南嶺