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臨済宗大本山 円覚寺

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2024.06.14
今日の言葉

いのちのバネ

先日は大阪天正寺の佐々木奘堂さんにお越しいただいて、坐禅の講習を行っていただきました。

前回の内容がかなり高尚で、修行僧たちには理解できにくいようだったので、そのことをあらかじめお伝えしておきました。

おかげで、今回はとても分かりやすくお話くださいました。

今回のテーマは、生命の弾機(いのちのバネ)です。

誰でも丈夫な「バネ」がついている。大事な「今」を生きているということなのです。

はじめに今回言いたいこと、実践したいことはただ一つ、誰でも生まれながらに「生命の弾機(いのちのバネ)」を持ち合わせているので、どんな時でもそれを発揮して生きていこうということだと示してくださいました。

そして「ぼよよん行進曲」という中西圭三作詞作曲の歌を教えてくださいました。

それは

「どんな大変な事が起きたって 君の足のその下には
とてもとても丈夫な「ばね」がついてるんだぜ 「知ってた?」
押しつぶされそうなそんな時だって ぐっ!とひざっ小僧に勇気をため
「今だ! スタンバイ! OK!」 その時を待つのさ」

という歌詞なのです。

足の下にはとてもじょうぶなバネがついているという言葉に私も心惹かれました。

そして、ウサイン・ボルトなどの選手の走る映像も見せてもらいました。

足が地に着くときには、小指球から着いているのです。

そして体が無理なく見事なバネになっています。

岡本かの子さんの言葉も紹介してくださいました。

『仏教人生読本』にある言葉です。

そのはじめに「悲観と楽観」という一章があります。

そこには、

「悲観も突き詰めて行って、この上悲観のしようもなくなると楽観に代ります。今まで泣き沈んでいた女が気が狂ったのでなく静かに笑い出すときがそれであります。

さればとて捨鉢の笑いでもありません。訊いてみると、「ただ何となく」といいます。私はその心境をしみじみ尊いものに思います。

 心の底は弾機(ばね)仕掛けになっているのでありましょうか。どの感情の道を辿って行っても真面目に突き詰めて行けばきっとその弾機に行き当るのでしょうか、必ず楽観に弾ね上って来ます。」

という言葉があります。

また更に

「悲観を突き詰めて行かなければならない事件やら境遇やらには誰しも出会いたくありません。

けれども、退引(のっぴき)ならざるを得ない場合が、絶対に来ないとは誰しも断言出来ません。しかし、その場合にも、誰の心にも弾機仕掛けがあって、どうやら人生を見直さしてくれるということは、たしかに信じ得られる事実です。」

「心の奥底は弾機仕掛けなっている」というのはよく言い得ていると思いました。
弾機ですから、重たいものでも跳ね返すだけの力を持っているのです。

跳ね返すばかりでなく更に飛躍もできるのです。

河合隼雄先生の言葉(『新しい教育と文化の探求』(創元社、194頁)から)も印象に残りました。

「余計なことをしたために強い依頼心をおこさせたり、その人の自ら立ち上がる力を阻害してしまったりすることが多い。

それに、一体何をすることが、その人の役に立つかなどということは、本当のところめったに解らないのである。

そのときによいと思ってしたことが後で悪い結果につながることも多い。

一個の人間の成長に役立つ最良の方法など私に解るはずがないという確信と、この人は自分でそれを必ず見出すだろうという確信とに支えられ、われわれは苦しむ人を前にして無為に居る強さをもつことができる。」

という言葉であります。

奘堂さんは河合隼雄先生も師事されています。

それからその前の日に漱石山房にも行かれたそうで、漱石の手紙の言葉も教えてくださいました。

漱石の1916年(大正5年)11/15に後の円覚寺帰源院の住職となった富沢和尚宛の手紙の言葉です。

「変な事をいひますが私は五十になって始めて道に志ざす事に氣のついた愚物です。

其道がいつ手に入るだらうと考へると大変な距離があるやうに思はれて吃驚してゐます。

あなた方は私には能く解らない禅の専問[門]家ですが矢張り道の修業に於て骨を折ってゐるのだから五十迄愚圖々々してゐた私よりどんなに幸福か知れません。又何んなに特勝[殊勝?]な心掛かわかりません。私は貴方方の奇特な心得を深く礼拝してゐます。」

自らを「五十になって始めて道に志ざす事に氣のついた愚物」と表現されていますが、この謙虚な気持ちは尊いものです。

ワークでは縄跳びのように飛び跳ねる運動から、からだの弾機を生かして坐る方法を習いました。

あれこれと技法で調えようとするのではなく、本来持っている体のはたらきから腰が立ちあがってゆくのです。

そうしますと『臨済録』にある言葉も深く味わえます。

「汝若し生死去住、脱著自由ならんと得んと欲すれば、即今聴法する底の人を識取せよ。無形無相、無根無本、無住処にして活潑潑地なり」という言葉があります。

入矢義高先生は「君たちが、衣服を脱いだり着たりするように、自由に生死に出入したいと思ったら、今そこで説法を聴いている〔君たち]その人が、実は形もなく姿もなく、根もなく本もなく、場所も持たずに、ぴちぴちと躍動していることを見て取ることだ。〕と訳されています。

「形もなく姿もなく、根もなく本もなく、場所も持たずに、ぴちぴちと躍動している」というのは、「いのちのバネ」にほかなりません。

初回はなにのことやら分からなかったという修行僧も少しは学ぶことができるようになっていました。

かなり工夫を懲らして、修行僧達にも分かるようにと心くだいてくださっていると感じて有り難く思いました。

 
横田南嶺

いのちのバネ

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