禅と茶
裏千家の淡交社が企画されたものであります。
四ッ頭茶礼の起源は中国の南宋時代にさかのぼると言われます。
禅宗の大寺院で行われていた茶礼です。
日本には鎌倉時代に禅僧によって伝えられたとされています。
初めて日本に臨済禅を伝えた栄西禅師の建仁寺では毎年盛大に四ッ頭茶会が行われています。
円覚寺では、毎年開山忌の時の正式のお昼ご飯に四ッ頭が行われていました。
それは御斎をいただくことから始まります。
もっとも正式な儀式なので、開山忌に出頭した袈裟と法衣のままで、坐禅を組んでいただくのです。
御斎のあとに続いて、茶礼となります。
この茶礼の部分が四ッ頭茶礼と呼ばれるものであります。
建仁寺でももともとは開山忌に行われていたのですが、四ッ頭の茶礼のみは、開山栄西禅師のお生れになった日に、一般の方々を招いて行われるようになっています。
私もかつて建仁寺におりました頃に、お手伝いしたものでありました。
点心席、濃茶席、薄茶席、煎茶席などの副席もあって、とても盛大なお茶会でありました。
今回、円覚寺の四ッ頭茶会は、淡交社の企画で開催されました。
二日間にわたって大勢の方がお越しくださっていました。
濃茶席は、陶芸家の河村喜史先生が担当されていました。
建仁寺の四ッ頭茶会でも法話などはありませんでしたが、今回円覚寺ではどういうわけか、法話をするようにという御依頼で、私の法話もさせてもらったのでした。
30分ほどの短い話を「日日是れ好日」などの禅語をもとにして連日させてもらっていました。
建仁寺は、なんといっても開山栄西禅師がお茶を日本に伝えたという深いご縁があります。
境内には茶碑も建立されています。
栄西禅師の著した『喫茶養生記』には、「茶は養生の仙薬なり。延齢の妙術なり。山谷これを生ずれば其の地神霊なり。人倫これを採れば其の人長命なり」と説かれています。
お茶は人間の命を養う仙薬であり、長寿の妙術である。
しかも、山や谷に茶の木が生えれば、その地は神霊となり、人がこれを採って飲めば、その人は長命を得るというのです。
建仁寺では毎年の開山忌には裏千家の家元が御献茶なさっていました。
禅と茶について調べようと、柴山全慶老師の『禅心茶話』という本を読んでいました。
分かりやすく禅の心について書かれているところがありましたので、引用します。
「古渓和尚が「三十年飽参の徒なり」と証明しておられるのでありますから、
利休居士は禅においても並々ならぬ境地を体得していたことは明らかなことであります。
さて、ここでいよいよ、それでは珠光上人が一休禅師から得た禅、利休居士が古渓和尚から得た禅とは、どういうものかということに触れねばならなくなったようであります。
ところが「禅とはどういうものか」ということが、ちょっと簡単にわかりよく申し上げることのできないものなのであります。
しかし、一応わかりよく申してみますなら、普通われわれの住んでおります現実の世界というものは、善悪・自他・死生・時間・空間、あらゆる対立の渦巻いている世界でありまして、静けさや安らかさのない世界なのであります。
ところが人の心の奥底には、どこかにこうした世界からのがれて、永遠のいのちに憧れるというか、静かなゆらぎなさがほしいという、ひそかな願いをもつ不思議なはたらきをもっているものなのであります。
そして、この心の底から湧く願いに催されて、渦まき波だつ相対的な心を、ちょうど波うっている池の水が静まるように、一生懸命静めて行きますと、澄み切った状態が自然に顕われてくるように、今まで知らなかった鏡のような、一点の塵、穢れのない心を自覚することができるのであります。
これを「無我」とか「無心」とか「唯一真心」とか、申しているのでありますが、こうした「無心の心」に気がつくことを「禅」というのであります。
ですから、このことを古人は「相をはなるるを禅と名づく」といっています。
そうして、この「無心の心」に気がつき、さらにその「無心の心」を新しく現実の世界に働かして生きることを、「禅の生活」というのであります。」
という文章であります。
まさに茶道というのは、この禅の心を実践するものといっていいでしょう。
栄西禅師は、
「大いなる哉心や、天の高きは極むべからず。 而るに心は天の上に出づ。
地の厚きは測るべからず。而るに心は地の下に出づ。 日月の光は喩ゆべからず。
而るに心は日月光明の表に出づ。大千沙界は窮むべからず。而るに心は大千沙界の外に出づ。」と詠われました。
心というものは、なんと大きいものではないか。
天の高さは測りしれないが、心はその高さを超えて出でるものがある。
地の厚さも測ることができないが、心はその地の下よりも深くひろがり出ている。
太陽や月の光も心の光を超え得ることはできないが、心の光は日月の光明の上にさらに超出している。
大千三千世界は窮むべくもないが、心はその窮めることのできない世界をなお超える大いなるものである。
という意味であります。
こんな広い心に目覚めることができたならば、どんなことが起っても「日日是れ好日」と日を送ることができるでしょう。
横田南嶺