健康は最高の利得
『法句経』の第204番として、
「健康は最高の利得であり、満足は最上の宝であり、信頼は最高の知己であり、ニルヴァーナは最上の楽しみである。 」
という言葉があります。
講談社学術文庫の『法句経』には、
「無病は上なきの利(さち)
足るを知るは上なきの財(たから)
信頼(たより)こそは上なきの親族(やから)
涅槃こそ最上の安楽(さいわい)なり」
と友松円諦先生は訳されています。
法句経の詩にはそれぞれ由来があります。
春秋社の『仏の真理のことば註3』にある解説から、一部を要約してみます。
「コーサラ王パセーナディの事」として掲載されています。
「諸々の所得は無病を第一とする」というこの説法をお釈迦様は祇陀林精舎に住まわれつつ、コーサラ王パセーナディに関してお話になった。
世尊はコーサラ王の大食・飽食をいましめたのでした。
王は一ドーナの米の御飯を、スープやおかずと一緒に食べました。
彼は或る日、朝食をすませてお釈迦様を訪ねたのですが、疲れた様子であちこちをめぐり歩いて眠けに襲われて、まっすぐに坐ることもできずにいました。
するとお釈迦様は王におっしゃっいました。
「大王よ。多すぎる食事は、これは苦です」
と述べて、この偈を誦えられた。
「眠りにふけり、また大食をし、眠っても転々として横たわる時、大猪(いのしし)のように餌で育てられて、再三再四愚鈍の者は母胎に近づく(輪廻する)」と。
この偈によって教誠なさって、
「大王よ、食事というのは量を知って食べるべきです。量をわきまえた食事には安楽があります」と仰いました。
更に教誠を加えてこの偈を述べられました。
「人が常に思念をたもって、得た食事に対して量を知っていれば、
その人の苦痛は薄らぐであろう。除々に老い、寿命は保たれる」と。
王はこの偈を覚えられず、そばに立っていた甥のスダッサナという学生に覚えさせました。
「食事をしている王が終りの丸めた御飯を食べる時に、この偈を誦えなさい」と言いました。
王は意味を考えてみて、その丸めた御飯を食べないようにしました。
次にご飯を炊く時にはその丸めた御飯の分だけを減らしたのでした。
そうして夕方にも朝方にも食事をする王が、終りの丸めた御飯を食べる時にその偈を誦えて、食べなかった分だけ減らしてゆきました。
そうすると王はすっかり食事が少なくなって、とても快調となったのでした。
健康な体になったのです。
王はお釈迦様に「尊師よ。今や私は快調になりました。鹿でも馬でも追跡してつかまえることが出来る身体になりました」と喜んで伝えました。
更に「以前の私は甥と戦争だけをしていましたが、今や和解して争いはおさまり、私には快適さだけが生じております。
クサ王の時代の宝珠宝石も我が家では先の日に失われておりましたが、それも今や私の手にもどっております。この理由によっても私には快適さだけが生じております。
あなた様の親族の娘さんを コーサラ王の家に迎えて王妃といたしました。
これによっても私には快適な気分だけが生じております」と。
と述べました。
お釈迦様はそこで
「無病というのは、大王よ、第一の所得です。
得た通りのものだけで満足しているのと同じ貴重な財産もありません。
また信頼と同じ不動の親族はありません。
また涅槃と同じ安らぎというものはありません」」
とお説きになったのでした。
これが「諸々の所得は無病を第一とする。財物は満足を第一とする。親族は信頼を第一とする。涅槃は第一の安らぎである」という『法句経』の偈なのです。
釈宗演老師の『臨機応変』にこの法句経の言葉が載っていました。
そこには、
無病第一利
知足第一富
善友第一親
涅槃第一楽
と書かれています。
そこにこの偈にまつわる次の話が説かれています。
仏弟子の迦旃延尊者の話です。
迦旃延尊者が富める人の前も、賤しき人の前も、善き縁を結んでやろうとし托鉢していました。
あるところで、一人の老婆がとても心配らしい顔をして河の畔に立つています。
尊者が「大層心配らしい様子だがどうした」と尋ねられました。
「実は私は今まで多年の間、或る高貴な身分の家で雇われていたのですが、ある過ちによってその家長の怒りに触れてしまい、ただいま出て行けと言われてしまいました。
しかたなく出てきましたが、明日からは食べるあてもなく住む家もなく、どうして暮そうか考えあぐねていました。
何十年もお仕えしてきてこんな憐れな事になってしまったので、生恥を曝すよりは、この川へ飛込んで死のうと思ってここに立っていました。
しかし思い返して見ると、そこは弱い人間の事で、死ぬと決心は付けたものの、何となく後へ心を引かれるようで、何かそこに未練が残る」というのでした。
そこで迦旃延尊者も大いに同情されて、
「それは如何にも気の毒な事だ、
残念だけれども、私は佛弟子であるから、一紙半錢も身に蓄えないので、今物質的にあなたをどうしてあげることもできない。
しかし、幸いにも平生我々がお釈迦様より承っている有り難い教えがあるから、これを心の慰安として授けてあげよう」と言って示されたのが、法句経の偈だというのです。
「無病第一の利なり」
「世の中には衣食住何不自由なく暮して居る人があるが、もし朝から晩まで病気ばかりして、年中医者と薬に親んているような人も大勢いる。
それに比べて見れば、あなたは幸い年はとつていても、健康ではないか。
健康な体があれば、どんなところでもやってゆける」
「それから「知足第一の富なり」。
どんな貴族でも富豪でも、身は如何に衣食住に充分のものを得ていても、もし満足の心が無かったならば、生涯不足不満で死んでしまうことになりかねない。
分に安んじ足る事を知るという麗しい心があるならば、それは第一の富ではないか」
「第三に「善友第一の親なり」
善き友達は第一の親みである。
世に親戚家族があったとしても時として頼みにならぬ事がある、
親子同志でも喧嘩をするし、夫婦同士でも別れてしまう事がある。
種々の事があるけれども、心と心と知り合った善き友達は、第一の親類親戚である。
あなたがもし誰一人頼る者が無いなら私に頼るがよい」とお釈迦様は仰せになったのでした。
第四には「菩提第一の楽なり」
菩提は、仏道という事になるのであるが、此の道を楽むという楽しみは尽きることがない。
世の中の楽しみは必ず半面には苦みが伴っているが、道を楽しむという宗教的の清らかな心の有様を楽しむのは最上の楽しみではないか」
と親切に説いて聞かせたのでありました。
そして「今私はあなたに一飯の施してやるべきものは手に無いけれども、この四句の偈を教えてあげるから、喜んで満足するように」と仰せになったのでした。
するとそのご夫人も生まれ変わったような喜びを得て生涯その麗しき心を以てどんな境遇でも不平を言わずに人生を全うしたという話になっています。
これは『法句経』の註釈にも無い話ですが、宗演老師はどこでご覧になったのでしょうか、知るよしもありませんが、よいお話であります。
「健康は最高の利得であり、満足は最上の宝であり、信頼は最高の知己であり、ニルヴァーナは最上の楽しみである。 」
しみじみ味わいたい言葉です。
横田南嶺