一大事
湯島の麟祥院は、いつも勉強会でお世話になっています。
徳川家光の乳母として知られる春日局の菩提寺です。
麟祥院の創建は、一六二四年(寛永元年)です。
春日局の隠棲所として創建されました。
今年でちょうど四百年になるのです。
野州宇都宮の興禅寺の渭川和尚が開山となっています。
京都の妙心寺にも麟祥院がありますが、こちらも1634年(寛永11年)に徳川家光により春日局の菩提寺として建立されたものです
峨山慈棹禅師(一七二七~一七九七)もまた、白隠禅師に参じて後、この麟祥院に十年ほど住されていました。
隱山禅師(一七五一~一八一四)が峨山禅師に参禅されたのもこの麟祥院でした。
隱山禅師は、越前のお生まれで、幼少にして出家され、十六歳で禅の修行に志し、十九歳で横浜の永田にある東輝庵の月船禅師に参禅されようとされました。
ところが、月船禅師のところに大勢の修行僧が集まっていて、これ以上道場に収容できないということで、まだ二十歳にも満たない隱山禅師は、入門を拒まれ、しばらく学問をするように諭されます。
はるばる山を越え川を渡って行脚してやってきて、はいそうですかと帰るわけにはゆきません。七日坐り通して頼みます。
涙を流して懇願して、最後には血の涙になったといいます。
そんな真剣な様子を見るに見かねて、ようやく月船禅師に取り次いでくれて入門できたのでした。
月船禅師のもとで修行を重ねて「仏語祖語、通明せざるなし」という自信を得られました。
しばらく美濃のお寺に住まわれていたのですが、月船禅師がお亡くなりになって、峨山禅師が後を継がれて白隠禅師の禅を大いに挙揚されているということを耳にして、月船禅師の会下でもあった峨山禅師にもう一度参禅しようとされました。
ちょうど峨山禅師が、江戸湯島の麟祥院におられて、そこで参禅されたのです。
『近世禅林僧宝伝』には当時麟祥院で峨山禅師が『碧巌録』を提唱されて、六百名あまりが聴いていたというのです。
隱山禅師ははじめて峨山禅師にお目にかかると、峨山禅師は手を出して、「どうして手というのか」と問い詰められました。
即答できないでいると、更に峨山禅師は足を差し出して、「なぜ足というのか」と問いました。
隱山禅師は春日局の御廟にこもって修行されたのでした。
朝のお粥とお昼のご飯をいただく以外は御廟を出ずに修行されて、とうとう悟りを開かれ、峨山禅師からも認められたのです。
隱山禅師三十九歳の時であります。
一八八七年(明治二〇年)には井上円了が、この寺の一棟を借りて哲学館(東洋大学の前身)を創立しています。
そこで境内には「東洋大学発祥之地」の碑(一九八七年(昭和六二年)建立)があります。
またその頃は臨済宗の学校も設けられていたことがありました。
明治八年(一八七五)年には臨済宗東京十山総黌という臨済宗の学校が開かれて、そこに今北洪川老師が招かれていたのでした。
その年には更に円覚寺の住持にもご就任なされていますが、その当時は麟祥院にいらっしゃって、円覚寺には通っておられたようです。
ただしこの十山総黌は長くは続かなく、洪川老師は明治十年円覚寺にお移りになったのでした。
昭和になって、飯田欓隠老師が麟祥院で提唱もなさっています。
朝比奈宗源老師や河野宗寛老師もここで禅会をひらかれていました。
近世の臨済禅においては由緒ある修行の場であります。
そんなお寺の開創四百年記念の法話を務めるのですから、栄誉なことですが、たいへんなことでもあります。
演題を「一大事」としましたのは、私にとって、そんな由緒ある麟祥院で法話をするのは、「一大事だ」と思ったからであります。
一大事は『広辞苑』には「①容易ならぬできごと。重大な事態・事件。」
という意味があって「太平記」から「正成不肖の身としてこの一大事を」。「お家の一大事」という用例があります。
それからもう一つ「②仏がこの世に出現する目的である一切衆生を救済すること。」と解説されています。
生死の一大事とも申します。
生と死の問題について話をしたのでした。
朝比奈宗源老師は旧版の『仏心』の中で、
「生き死にのことが、人生にとって大問題であることは、どの宗教でもいっていることで、ことに佛教はこの問題解決が主なる目的とされるだけに、昔からやかましくいう。
生死事大、無常迅速とは、耳にタコができるほどきかされるところだ。
また事実そのとおり人命は露よりもろい。
死がひとたび到来したら、英雄も豪傑も、富豪も権力者も、すべてその権威を失い、ただ一片の物質と化し去るのだ。
その死の来かたも、もうお迎いがきてくれてもよいのにと、この世にあきがくるような緩慢にくる例は稀で、多くは人間の意表をついて来る。」
と説かれているように、いつ死が訪れるかは分かりません。
江戸時代の戯作者大田南畝が「今までは 人のことだと 思ふたに 俺が死ぬとは こいつはたまらん」と詠っていますが、お互いもいつか、この歌の通りの思いをするのであります。
そこで、古の禅僧は、あらかじめ元気なうちに生死の問題に取り組めと仰っているのであります。
横田南嶺