三つの宝
午前10時から円覚寺仏殿で降誕会をお勤めします。
先日は花園大学の入学式に行ってきました。
春先は気候不順ですが、良いお天気に恵まれました。
北鎌倉を始発の電車で出かけてきました。
大学に着くのは九時頃で、多くの学生さんたちが集まっています。
花園大学は小さな学校なので、学内の体育館で皆揃って入学式を行うことができます。
舞台の上には、ご本尊さまが祀られているのが特徴的です。
まずはじめに、三帰依の歌声が響く中を私が皆を代表してご本尊に焼香して三拝します。
そのあと学長の式辞があり、総長である私の祝辞、そして花園学園理事長の祝辞と続きます。
今回私は、まずこの大学が臨済宗の教えを学ぶ学校から始まったことを述べました。
その理念は本学の建学の精神として受け継がれています。
建学の精神は「禅的仏教精神による人格の陶冶」です。
「陶冶」というのは「人間の持って生まれた性質を円満完全に発達させること」です。
この人格を円満完全に発達させるためには三つの大切なものがあることを伝えました。
その第一は善き師、自分を導いてくれるよき指導者であります。
幸いに本学には多くの先生方がいらっしゃいますので、善き師を見つけてくださいと伝えました。
それから次に大切にすべきは正しい教えであります。
幸いに仏教は二千五百年の歴史の検証に堪えてきています。
禅にしても千数百年の歴史の検証に堪えてきた教えであります。
そして禅は今や世界の人から注目されて、たよりとされているものです。
これはよすがとするに足る教えであると言えましょう。
本学では、どうか禅や仏教に触れてみてくださいと伝えました。
三つ目はよき仲間、よき友であります。
お釈迦様は、常に善き友を持つことの大切さを説いておられました。
そんなお話を聴いて、阿難尊者は、お釈迦様に尋ねました。
「私どもが、善き友をもち、善き仲間とともにあるということは、すでにこの道の半ばを成就したに等しいと思われます。この考えは如何でしょうか」と。
するとお釈迦様は、「それはちがう」と仰いました。
そして「善き友をもち、善き仲間とともにあることが、この道のすべてである。」と仰せになったのでした。
阿難尊者は、善き友を持つことが道を半分も成就したことになるというだけでも、少々言い過ぎかもしれないと思って尋ねたのでした。
それが、そんな程度ではないと知らされたのでした。
善き師にであい、良き教えに親しみ、そして善き友を大切にする、この三つが人生の宝であるので、三宝と言います。
私が開式にあたって皆さんを代表して三拝したのは、この三つの宝に対してであります。
善き師、善き教え、善き仲間をたよりにして、良い人格を形成していただくように願っていますとお祝いの言葉にしたのでした。
善き師は仏であります。
善き教えとは法、真理であります。
善き友を僧といいます。
この三つが仏法僧の三宝なのです。
三宝に帰依するということを、浄土宗の椎尾弁匡僧正は「明るく正しく仲よく致しましょう」と平易に説かれていました。
まず仏に帰依するというのは明るく生きることであるというのです。
椎尾僧正は、
「明るくなるということはどういうことであるか。
それは目が覚めることだ。目をつぶってしまっては、明るいようでも手前勝手になる。
目をあいたとき外の物まで明るく見える。
明るく見えるということは日月等の光りを受けること、すなわち大きな御光り、日月以上の大きな御光り、お照らしがある。
あるからそれを受ける。
いつでも私たちは目に見える以上の力でお育てを頂いておる。」
と説かれています。
法に帰依するとは正しく生きることです。
椎尾僧正は、
「法というのは正しいということであるが、正しいというのはまっすぐにすることで、つまりぐるぐる曲り道をしない。
けれども、急がば廻れと言いますように、まっすぐに行けと言うたからまっすぐに行って川の中にとび込んだり、電車道を無理に通ってひかれたりしてはダメです。
そうでなく、まっすぐということはムダを無くすることだ。曲り道をなるべく減らすのだ。
しかし急がば廻って行くのも正しい道だ。
そういうふうにムダをしない。
ところが、私共が朝から晩まですること考えること言うこと、みなムダが非常に多いのです。
ムダ口・ムダごと・間違い・まごつき・ごろつき・いろいろのものがで来る。
そういうふうに曲ったことをしないで、まっすぐにずんずん行くのが正しいということです。
すなわち一切経といい御教えというものは、私たちがまごつくところをまごつかぬように、ムダするところをムダせぬように教えなさる。」
と説かれています。
最後に僧に帰依するとは和やかに生きることです。
「すでに明るく正しくして行く生活には、必ず兄弟でも夫婦でも隣同志でも、また国際関係でも、みな自然に平和となり共同一致となり、十方発達にならずにはおりません。
それがなごやかさー僧であります。」
ということです。
更に椎尾僧正は、
「仏法僧の三宝を敬うということは、お木像をきれいに飾って花を上げて、ただおじぎをしろということではない。
それは、幼き者に小さい時からしてそういうふうな物を見てそれを拝むくせをつけておくと、結果は何を望んでおるかというと、本当に明るく正しくなか良くすることを教えておるのだ。
いつでも粗末にしないで、喜んで働き、喜んで社会人生のために尽すようになるのだ。
これが本当の三宝を敬うということだ。」
と説かれています。
お釈迦さまの教えは八万四千という膨大の経典の中に残されています。
その経典の内容は「慈」の一字に尽きると申します。
「慈」とはいつくしむことでありますが、印度の原語サンスクリットではマイトリーと言いまして、これは「ミトラ」から造られた言葉、本来は「友情」「友人」の意味があります。
「慈」とは、ある特定の人にだけ友情をもつのではなく、あらゆる人々に平等に友情をもつことであります。
お釈迦さまは生涯修行者達に「友よ」と呼びかけられたと伝えられています。
お釈迦さまにとっては、彼らは弟子というよりも一緒に修行する友であったのでしょう。
またこのことからは、お釈迦さまご自身もご生涯通じて彼らと共に修行するのだという尊いお心もうかがわれます。
三つの宝を拠り所として生きるのが仏教徒なのであります。
横田南嶺