仏心は大慈悲
この本のカバーに、
「禅の立場から儒仏の一致を説く、 今北洪川(一八一六一八九二)の漢文著作『禅海一瀾』。
その全文を法嗣釈宗演(一八五九―一九一九)が詳細かつ縦横無尽に説き明かす。
今回新たに洪川の手沢本と手稿を参照し、出典を丹念に調査して、厳密な校訂・注釈を施した。」
と書かれています。
手沢本は円覚寺に伝わるものです。
それを参照して「出典を丹念に調査して、厳密な校訂・注釈を施した」のが小川先生なのでした。
私は、校正と解説を書くことだけさせてもらったのでした。
七〇〇ページを超える大冊で、よく読むのがたいへんだとか、難しいなどとも言われたものですが、私は見台に分厚いゲラを置いて、何度も何度も読み返したのでした。
『禅海一瀾講話』の文庫本を読んでいると、その頃のことが思いおこされます。
儒仏一致ということについて、『禅海一瀾講話』には次のように書かれています。
「韓退之とか 欧陽脩とかいう人は成程文章家であり、また学者であるけれども、その識見というものは、余程狭隘なものじゃ。
今日から見ると、ああいう人の論は狭いばかりで無い、片寄って居る。
所謂る坊主が憎くけりゃ袈裟まで憎いという論法で、頻りに廃仏を唱えた。
独り韓退之や欧陽脩ばかりでは無い。その韓退之、欧陽脩の糟粕を舐って仏に害を加え様という輩がある。
「仏者も亦た吾が法を尊び、尋常儒と殊別なるを論ず」。
儒者ばかりでなく、仏者もまた手前味噌を掲げ、儒者を商売敵という様に悪くケナシて仕舞う。
両者の異端呼わりは珍らしからぬ。
「是に於て、儒仏互いに憎み見ること、水火の容れざるが如し」、乃で「此の編」即ち『禅海一欄』は、それに反して「始終同を以て対説す」、儒道と仏道と同じき点のみを対照して説いた。
凡そ真理には契合と特殊の二方面があるのである。
例えば仏教も耶蘇教も宗教として世に臨んだ所は変りが無い。
仏の慈悲心、耶蘇の博愛皆同じである。
『観無量寿経』にある如く、「仏心とは大慈悲是れ」で一言に尽して居る〔諸仏心者大慈悲是〕。
また耶蘇教で、ゴッド・イズ・ラブ、ラブ・イズ・ゴッドというも同じ意味だ。宗教としての立場は同じである。
所が学問の方面から言うと、仏教と耶蘇教とは全然趣を異にして居る。
その優劣は同日の論でない。
今、先師はその契合点に就いて、「是れ山僧の説法、天下の仏者と別なる処」であると説かれた。」
とあります。
洪川老師は、儒教と仏教との一致を説かれているのですが、それを解説された釈宗演老師は、仏教とキリスト教の一致まで説かれているのです。
洪川老師は、文化十三年(1816)、摂津国西成郡福島村に生まれました。
若き日に、藤沢東涯について儒学を学び、広瀬旭荘に詩歌や文章を学んだ方です。
万巻の書を暗記するほどの方でしたが、これらは結局古人の糟粕に過ぎないと悟って、禅書を読むようになりました。
『禅門宝訓』を読んで、今まで学んできた書物を捨て去って、京都相国寺の大拙禅師のもとで出家得度したのでした。
その時歳は二十五歳でした。
その頃の思いが『禅海一瀾講話』には書かれています。
「「箇の得難き最霊の精神を以て、終身、糟粕に区々として棺を覆うは、豈に憾み無かる可けんや」。
実に最霊の精神、昔から、人は万物の霊と言って居るけれども、広い意味から言えば、人独りが霊なる者でない。
一切万物皆な最霊の精神を持って居る。
その尊いものを持ちながら、生涯ただその甘味の無くなった粕ばかりを漁って区々として棺を覆わんは、意気地ないではないか。」
というのであります。
しかし「古の聖賢は皆な亡びて、そうして新しき所の聖賢という者が未だ世に現われない。」「誰を主として学んだら宜かろう。」
と悩まれました。
そして始めて禅宗の書物をご覧になったのでした。
すると「何となく何処かで見たことがある様な気がした」というのであります。
更に「教外別伝、不立文字」という言葉にであって、覚えずコレダと叫んだのでした。
しかし、自分にその道を指導してくれる人がいないのを悔やまれました
ある人が『禅門宝訓』という書物を貸してくれました。
その書物の中に、宋の達観穎という僧が、初めて石門の聡和尚に見えて、室中において、あれこれと経典語録などについてまくしたてました。
すると「石門和尚が言うに、子が説く所は如何に辯じても、詰りそれは反古紙同様で、俗に言う畳の上の水練みた様なものである。」
「如何に喋って見ても、心の精微ということに至っては、とてもとても及びもない。
まだ家の門に這入って居らぬ。その堂に上り、その室に入ると云う、堂も室も無いことである。」
というのであります。
「堂に升り室に入る」とは『論語』(先進)にある
「由や、堂に升れども、未だ室に入らざる也」からきています。
「堂」は表座敷、「室」は奥座敷をいいます。
「「堂に升る」とは学徳が高明正大の域に至ること、「室に入る」とは更に進んで精微深奥の域に達することで、学問や芸術が次第に高い水準に進み至るのをいう。」と『広辞苑』には解説されています。
そこで禅の修行に身を投じることとなったのでした。
厳しい修行の結果、洪川老師は儒教も仏教も根底は一つと悟ったのです。
仏心は大慈悲であることを明らかにされたのでした。
横田南嶺