念々感謝
人間学塾中之島で講演をしてきました。
人間学塾中之島は、森信三先生の教えを学ぶ方々の集まりであります。
森先生の高弟であった寺田一清先生が始められた天分塾というのがその前身であります。
天分塾が人間学塾中之島となって、ただいま第十二期であります。
私は、有り難いことに第二期から講師としてお招きいただいています。
はじめて講義した時には、今北洪川老師の禅海一瀾について話をしました。
もう十一回目の登壇であります。
毎回テーマは「禅の教えに学ぶ」としていますが、無学祖元禅師について話をしたり、釈宗演老師について話をしたり、その年々によって内容を考えています。
昨年は臨済禅師について話をしたのでした。
今回は、インドから帰ったところでもありましたので、仏陀に学ぶと題して、お釈迦様の話を致しました。
現地での写真などを交えながら、パワーポイントを利用して講演したのでした。
はじめてうかがった時には、森信三先生の教えを学ぶ会ですから、教師の方の集まりかと思ったのですが、学校の先生はほんのわずかで、実際に社会で働いていらっしゃる方々の集まりであります。
会の始まりには「ああ、中之島」という歌を皆で歌います。
コロナ禍の間は黙って歌っていましたが、もう遠慮無く声を出せるようになりました。
寺田一清先生の作詞であります。
ああ 中之島
名も高き 水の都の
なにわの地
ふかき伝統
うけつぎし
人間学塾
この地この時ああ中之島
願いこめ、この日の本の
再生を心に秘めて
努めんや 心願達成
共に手をとりああ中之島
天仰ぎ地にひれ伏して
願わくば 師恩の光り
しみじみと 念々感謝
この学び舎に ああ中之島
この学び舎に ああ中之島
この中の「念々感謝」という言葉がいつも心に響きます。
それからみんなで立腰の時間があります。
イスの上に腰を立てて坐るのであります。
イス坐禅といってもいいでしょう。
この立腰があるので、講演の始まりにも、インド旅行に触れて、長時間の飛行機やバスの移動の間も、腰を立てて坐っていると、腰を痛めることもなく快適であったことを伝えました。
このことは終わったあとの感想でも多くの方が心に残ったと仰ってくれていました。
「中之島ニュース」という機関誌があって、そこには毎回の講師の講演の要旨が書かれています。
私の前の月は、新宮運送の木南一志さんが講演なさっていたようでした。
その誌面の中に「塾生講話」という欄があって、「無名有力」と題した原周作さんの一文が目にとまりました。
一部を紹介します。
「大学時代何のために生きているのか、と悩む。
その後家業である「東京魚類容器株式会社」 に入社。
会社は鮮魚などを容れる発泡スチロール容器等を市場などに提供しているが、この仕事をしたいと望んだわけではなかった。
しかし、 ある日業者ではない一般の方からの容器のご購入があった。
事情を伺えば、幼いお子様が亡くなられたとのことで、 ご遺体をいれておくためということだった。
そのときにはじめて、 自分の仕事は「いのち」を運ぶことなのだ、と衝撃を受け、仕事に対する意識が変わり誇りを持てるようになった。
人間学塾・中之島に入塾し、さまざまな出逢いの中で、「はがき」と「掃除」を学び、実践している。
母にはがきを書く習慣が定着し、母からもとても喜ばれている。」
という文章でした。
こういう気持ちで生きておられる方がいらっしゃるのは有り難いことであります。
心に響く一文でした。
毎回講演の前に講師紹介というのがあります。
寺田先生がお元気な頃には、寺田先生が私のことを紹介してくださり、恐縮したものでした。
今回は、四国中央市の近藤宏枝さんが紹介してくださいました。
私のことを「清澄の人」と紹介してくださって恥ずかしい限りでした。
もう十年も通っていると顔なじみの方も多くなりました。
特に有り難かったのは、西尾行正さんが来てくれていたことでした。
西尾さんは宝塚市にお住いの会計士の方でいらっしゃいます。
私と久しぶりに出会って、しみじみと息子が大学を卒業すると仰ってくれました。
西尾さんは会計士としてアメリカに渡り、ご活躍のところ、脳出血によって半身不随となったのでした。
ちょうどそのご長男のお生まれになった頃だったのでした。
人生まさにこれからという時に、左半身不随となったのでしたので、その心痛は察するにあまりあります。
西尾さんは、自分は子どものためになにもしてやれなかったと静かに語ってくれました。
しかし、西尾さんは不屈の精神で職場に復帰して、お子さんが大学卒業するまでお育てになったのです。
感慨無量だろうと想像しました。
今からもう八年ほど前に、西尾さんが円覚寺を訪ねてくれたことがありました。
その時のことを私は月刊『致知』平成二十九年二月号に書いたことがありました。
以下一部を引用します。
「五十代の方で関西に住んでおられる。
十数年前に大病に倒れて左半身の自由を失われた。
まだまだ働き盛りの頃である。絶望のどん底であったが、彼は決してめげずに頑張った。
壮絶なリハビリを経て、不自由な体ながら社会復帰を果たされた。
彼は真民先生の詩『タンポポ魂』を励みにしてきたと言われていた。
大阪中之島で行われている森信三先生の教えを学ぶ会では何度かお目にかかったことがあるのだが、昨秋どうしても円覚寺に来て私に会いたいというのだった。
不自由な身ながら、早朝に関西の自宅を出て新幹線を利用して、鎌倉まで来て下さった。
改めて来訪を受けて、そのお体の大変な様子には驚いた。
一歩一歩の歩みは、我々の半歩にも満たない。
それでも、どうにか電車を乗り継いで来られたのだ。
首都圏の交通機関は大勢の人であふれている。
鎌倉もまた観光客が多い。親切な人ばかりではない。
「危ない目に遭いませんでしたか、ぶつかられてころんだりしませんでしたか」と尋ねたが、大丈夫だと言われた。
聞けば毎日電車を乗り継いで通勤されているらしいが、今までもぶつかられて転んだことはないと言われた。
円覚寺は、山を切り開いた寺なので、坂や階段が多い。
私のいる小庵も細い階段を昇らなければならない。
外まで出迎えて、階段を昇るのに手を貸そうとしたが、丁重に断られた。
そして自分でしっかりと歩まれた。
彼はこのように歩みながら、一歩一歩「踏みにじられても 食いちぎられても 死にもしない 枯れもしない…」と「タンポポ魂」の詩を唱えながら歩いてきたのだろうと思った。」
と書いています。
真民先生のタンポポ魂というのはこんな詩であります。
タンポポ魂
踏みにじられても
食いちぎられても
死にもしない
枯れもしない
その根強さ
そしてつねに
太陽に向かって咲く
その明るさ
わたしはそれを
わたしの魂とする
中之島人間学塾に集って学ぶ方々はみなそれぞれの持ち場で、太陽に向かって精いっぱい働いて一隅を照らしておられる人たちなのであります。
こういう会に呼ばれてご縁をいただくことはまさに有り難く「念念感謝」という歌詞を歌うときには心がこもるのであります。
横田南嶺